西寒多神社 ( ささむたじんじゃ)
平安中期に突如出現した式内社
大分市 寒田(そうだ)1644番地に鎮座。式内名神大社。旧国幣中社。 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ) 月読大神(つきよみのおおみかみ) 伊弉諾(いざなぎ)大神 伊弉冊(いざなみ)大神 大直日(おおなおび)大神 神直日(かんなおび)大神 八意思兼(やごころおもいかね)大神 大歳(おおとし)の大神 倉稲魂(うかのみたまの)大神 軻遇突智(かぐつち)大神を祭る。毎年4月29日〜5月5日、 寒田川 中流にあるこの社ではふじまつり大祭がおこなわれ、多くの人々で賑わう。樹高3m、幹径1m、枝張り22m、棚の広さ330uの 稀有(けう)の名木は、応永15年(1408)社殿を西寒多山上から現在の地に 遷(うつ)した時に地区民が植えたと伝えられる。『 日本三代実録 』の貞観11年(869)3月22日条に「豊後国無位西寒多神従五位下」とあり、国家より叙位を受けている。また『 延喜式(えんぎしき) 』巻第十には豊後の 式内社 (延喜式 神名(しんめい)帳に記載されている神社)六座の一つとして記されている。平安後期以降は社運が衰退したが、後に 大友氏 の厚い信仰を受けた。例祭は4月15日、特殊神事に神衣(かんみそまつり)があり、33年目ごとに神衣を調する式年大祭として著名。
〈神社の成立〉
神社とは神々を祭るために建てられた建物もしくは施設の総称である。古くは 社(やしろ) 宮(みや) 祠(ほこら) 杜(もり)とよばれた。神々が鎮座する本殿 神を礼拝し祈願する拝殿 これらを囲み神聖を保つ 瑞垣(みずがき)。聖域の門にあたる鳥居などからなる。本来神社は人々が集まって神を祭る神聖な場所で、死の 穢(けがれ)を忌む禁制の森をなしていた。『 古事記 』によると、天皇が皇祖神を 祀(まつ)る方式に倉の柵の上に 神璽(しんじ)(皇位のしるし)の飾り玉を安置する形があった。つまり、神殿の最初の形は神霊の 依代(よりしろ)である神宝や 御霊代(みたましろ)を収める倉であったと思われる。また、天皇が神祭にあたり 忌篭(いみごも)りした場所を暗示する記述もみられ、これが拝殿 祈願殿などの基となったと思われる。年一度の 新嘗祭(にいなめさい)に祈年祭が加わり次第に 祭祀(さいし)の数が増すにつれ、古墳時代には常設の神殿がつくられ、平安時代から拝殿 奉幣殿などの付設建築が設けられて今日の神社の形式が整った。
〈神階制度〉
神階とは諸神に奉授した位階である。史料上の初見は天武天皇元年(672)7月。以後ほとんどの諸神が叙位にあずかった。政府はなぜ神に位階を与えたのか。位階授与は9世紀に集中し、これらの中には式内社に組織されていない神社が391社もある。これは神階授与の目的が「8世紀中葉以降、在地において富豪層を背景に新たな神祇が成長してくる。国家はこれを把握するとともに、国家につなぎ止めておこうとした。」事を暗示する(『講座日本史』中巻)。
〈豊後の式内社〉
式内社の数は神名帳に登載された当時3,132座。西海道には109座。豊後には6座あった。直入郡 建男霜凝日子(たけおしもこりひこ)神社 (竹田市 神原(こうばる)に鎮座)、大分郡西寒多神社(上述)速見郡 宇奈岐日女(うなぎひめ)神社 (湯布院町川北字谷に鎮座) 火男火賣(ほのおほのめ)神社 (別府市鶴見に鎮座)、海部郡 早吸日女(はやすいひめ)神社 (佐賀関町関に鎮座)の六座で、いずれも9世紀半ば以降、中央政府から神階を授けられている。
〈西寒多神社の登場〉
西寒多神社は豊後式内社六座のうち最も遅く神階が授けられた。にもかかわらず、『延喜式』に国幣(国司が祭る神)大社として記載されたのはなぜであろうか。『 類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく) 』によると、嘉祥3年(850)の 太政官符(だじょうかんぷ)は有位の神社に一階を加え、無位の神社には六位を授ける事を命じ、大社や 名神社(みょうじんしゃ)で無位のものに直ちに従五位下を授ける事を命じた。翌、嘉祥4年の官符は従五位を授けられる神以外は全て正六位に叙す事を命じた。これにより嘉祥4年までに創建された神社で無位の神はない事になる。西寒多神社の叙位が貞観11年(869)。つまり創建は嘉祥4年以降となる。国幣大社昇格は元慶末年(884ころ)。
この間わずか30年。これほど短期間に急成長しえたのはなぜだろうか。9世紀に入ると谷田(山間の谷あいに造成された柵状の水田)の開発が盛んに行われた。本宮山西の谷間を北東に流れる寒田川や、東の麓を源流とする 敷戸(しきど)川 流域も開発がすすめられた。西寒多神社はこの谷間の原野を開発し谷田を造営した富豪層とこれに率いられた開発農民が祭った神ではないだろうか。9世紀初頭から九州地方では凶作と 飢饉(ききん) が続き、農民の窮乏と浮浪人の増加が著しかった。律令政府は、荒廃した農地の復興と浮浪人の定住化をさせるため、勧農と貧民の救済に努め徴税の対策を講じた。豊後国と肥後国の貧窮民2,500余人は仁寿2年(852)と斉衡元年(854)の2度税を免除されている。富豪層はこの貧窮農民を動員し寒田川流域の開発をおし進めた。無位から従五位下さらに国幣大社という西寒多神社の飛躍的昇格は、この在地の神を国家の 神祇(じんぎ)体制の中に位置づけ、その神を通して地方の富豪層を中央政府にうまく従わせる方策であったと考えられる。(『大分市史』中巻)
[大塚 忠巳]
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