佐田氏 ( さだし)

宇佐郡随一の実力者

 佐田氏は宇都宮系 城井(きい)氏 の分家で有力な鎌倉御家人。 佐田川 と 山蔵川 が合流する佐田( 安心院(あじむ)町大字佐田)を本拠地としていた。「 宇都宮佐田氏略系図 」によると、次ぎの通りである。 通房(みちふさ)− 頼房(よりふさ)− 公景(きみかげ)− 経景(つねかげ)− 親景(ちかかげ)− 盛景(もりかげ)− 忠景(ただかげ)− 俊景(としかげ)− 泰景(やすかげ)− 重泰(しげやす)− 朝景(ともかげ)−隆居− 鎮綱(しげつな)
〈佐田荘地頭 職(しき)〉
 佐田氏は 宇都宮頼房 の第5子公景に始まる、有力な庶家である。宇都宮氏は 下野(しもつけ)の豪族で本姓藤原、粟田関白道兼を遠祖とするといわれている。「宇都宮佐田氏系図」では中原氏を称していることから、本来は中原氏に出自し藤原氏とは擬制的な関係があったものとも想定される。八田 宗綱(むねつな)が宇都宮氏を名乗り、鎮西宇都宮氏の始祖はその弟宗房の子息信房で、鎮西下向の契機は豊前国に地頭職を賜わり、中津郡城井(福岡県 京都(みやこ)郡 犀川(さいかわ)町城井)に居城したのに始まるという。正応3年(1290)10月4日 信房(のぶふさ)の子孫 通房 (尊覚)は、足立五郎左衛門尉遠氏 知行地(ちぎょうち)の宇佐郡 佐田荘 地頭職を同郡上毛郡安曇村の替わりとして領掌するよう、幕府から命じられた。正和2年(1313)、佐田荘は大和前司(宇都宮頼房)領として確認できる。佐田荘は宇佐宮 御許山(おもとさん)領であった。
〈南北朝期の佐田氏〉
 建武3年(1334) 佐田公景 、足利尊氏の軍事指揮下に属した。彼は初代の 九州 探題(たんだい) 一色道猷(いっしきどうゆう) を支えた有力な武士の一人である。観応2年(1351)九州探題一色道猶は 宇都宮公景 に対し、豊前国元永村 伊加田荘 肥後国岩部村 木柴村地頭職及び豊前国吉田荘地頭職を給与。しかも、九州探題が九州に下向する際、必ず佐田氏に協力要請しているほどであった。2代公景は探題 今川了俊(いまがわりょうしゅん) に仕え、文和2年(1353)戦死、彼は筑後国守護代として確認できる。特に、今川了俊は、大内義弘が 押領(おうりょう)した佐田氏の所領である伊方荘 元永村に対し、「父祖討死の跡であり、他家と異なり幕府に対して特別忠節の家」 として、その返還を命じている。当時、公景は築城郡城井谷に居を構えていたようである。
〈宇佐郡代〉
 応永6年(1399) 親景 が佐田荘青山に移住して以降、佐田氏を称するようになった。佐田氏の中核的な所領は、@豊前国宇佐郡御許山領佐田荘(53町の内、16町5段15代)、A同国田川郡柿原名(3町)、B同国築城郡牛丸名(8町)、C同国宇佐郡深見荘内下岩迫屋敷である。大内氏が豊前を支配するようになると、最も有力な在地領主である佐田氏を、 宇佐郡代 に任命した。享徳3年(1454)に 佐田盛景 、延徳4年(1492)に 佐田俊景 、永正15年(1518)には 佐田泰景 から 佐田 盛理(もりまさ) に交替、享禄3年(1530)に 佐田 朝景(ともかげ) 、天文19年(1550)には 佐田隆居 がそれぞれ郡代として確認できる。郡代の職務は、 宇佐宮 寺の造営用材木の採用や社納人足の催促、訴論地の打ち渡し、宇佐宮諸職の打ち渡し、直轄領違乱に対する成敗、宇佐宮盗人の 誅伐(ちゅうばつ)、愁訴の取り次ぎ、宇佐宮造営 諸神事の奉行などであった。佐田経景が永和5年(1375)10月筑後山崎で戦死、この時、経景の子は幼少であったため、同10月25日今川了俊は跡目相続を 安堵(あんど)(保証)した。ところが、経景の弟 氏治(うじはる) は南朝方で佐田荘地頭職を押領しようと企てた。文安元年(1444)3月、佐田盛景が大内教弘に当知行を安堵された。この地域は豊前 豊後の境界に近く、大内 大友両軍による抗争の舞台となった。大友軍はしばしば佐田氏を攻撃している。明応7年(1498) 大友 親治(ちかはる) は 佐田泰景 を攻撃、佐田俊景と共に 菩提寺(ぼだいじ)に 楯篭(たてこも)り奮戦、翌年10月宇佐郡院内衆と 妙見岳(みょうけんだけ)城 で抗戦している。天文3年(1534) 大内義隆 は豊前方面から豊後を突こうとして進出、 大友 義鑑(よしあきら) はこれに対抗して、大内方の佐田朝景を攻撃。この年に 勢場が原の合戦 (山香町)が起こり、佐田氏が活躍している。弘治3年(1557)大友氏が本格的に豊前進出以降、佐田氏は大友方に帰順した。佐田氏の従者は、佐田一族を初め、 加来(かく)氏 永松氏 高並(たかなみ)氏 、 平郡氏 小田氏 等である。
〈佐田氏の城館〉
  青山城 と 赤井城 は佐田荘地頭の代々の居城。両城はごく近くに位置し、前者は応永6年(1399) 佐田親景 が城井菅進から佐田の青山に移って築城したという。青山城は佐田川に囲まれた断崖絶壁で標高250m、比高差150mあり、頂上には 土塁(どるい) 空堀 土橋、一部に石垣が良好に遺存している。単郭式山城。ここからは佐田が一望でき、また交通の要衝でもあった。後者は菩提寺を前身として発展し居城となったもので、土塁 空堀が遺存する。居館の推定地として、 佐田小学校 の敷地(古屋敷 堀の内の小字名)か 佐田神社 が有力である。旧 宝積寺跡 には佐田氏の墓地がある。天正15年(1587) 黒田 孝高(よしたか) が豊前6郡に入部すると領地を失い浪人となり、大友氏を頼って豊後へ赴いたが、文禄2年(1593)大友氏の 豊後除国 に伴い佐田に戻り、慶長5年(1600) 細川氏 の家臣となり、以後、熊本転封に伴い同行している。
 参考文献 『鎮西宇都宮氏の歴史』
[乙・ 政已]

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