参勤交代 ( さんきんこうたい)
絵馬に見る藩主の御座船
「 大名(だいみょう) 小名(しょうみょう)、 在(ざい)江戸の交替相定むる所なり。毎 歳(とし)夏四月中に参勤すべし。従者の員数、 近来甚(ちかごろはなは)だ多し。 且(かつ)は国郡の 費(ついえ)、且は人民の労なり。 向後(こうご)其の 相応(そうおう)を似て之を減少すべし」(『徳川禁令考』)。これは寛永12年(1635)6月21日に、3代将軍家光が発布した全文19か条からなる「武家諸 法度(はっと)」のうち、参勤交代を制度化した第2条である。4〜6月は旧暦の夏であり、「夏四月中」とは太陽暦ではおよそ5月で、入梅以前に参勤すべきことを命じているのである。寛永19年(1642)になると譜代大名の参勤交代の時期が2月、関東 東海の譜代大名は9月と決められ、外様大名と参勤の時期がずらされた。
〈「御在所交替」方式による参勤交代〉
幕府の大名配置の方針は、江戸周辺には譜代大名を配し、水戸 尾張 紀伊の要地に御三家を、また東海から大坂周辺にも譜代大名を配すること、外様大名は遠隔地に配置し、親 疎 譜代を相接して配置することで相互に監視させることだった。二豊をみると中津 杵築 府内の3藩が譜代大名、日出 臼杵 佐伯 岡 森の5藩が外様大名だった。このため 杵築藩主 能見(の(う)み)松平氏 と 府内藩主 大給(おぎゅう)松平氏 の両譜代大名が交互に在国し、外様大名を監視する任務を帯びていた。また外様大名の 岡藩主 中川氏 と 臼杵藩主 稲葉氏 は交替で参勤し、同時参勤、同時在国はさけるように定められていた。このような参勤方法を「御在所交替」方式と称した。なお豊前の 中津藩主 奥平氏 は 小倉藩主 小笠原氏 と、譜代大名同士が交代して参勤することになっていた。二豊の大名の参勤年を見ると、子 寅 辰 午 申 戌年の参勤大名は中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯 毛利氏 の4大名、丑 卯 巳 未 酉 亥年の参勤大名は府内松平氏、 日出(ひじ) 木下氏 、岡中川氏、森 久留島氏 の4大名だった。
〈参勤コースと参勤交代の経費〉
元禄15年(1702)、岡と臼杵両藩は幕府の命により「豊後国諸道程の調査」を行った。その控として 岡藩 には「豊後国城下居城より道程之覚」が、臼杵藩には「豊後国道程之書付」がみられる。九州 四国の大名は参勤にあたって、紀伊半島を廻って海路で船を江戸湾に乗り込むことは禁じられていた。このため九州方面からの参勤は海路をとる場合は大坂以西の港を利用して上陸し、その後は陸路で江戸に向かうことになっていた。豊後七藩のうち海路と陸路(中国路)を利用したのは岡藩中川氏だけで、他は海路を利用した。中津藩奥平氏は中国路が近かったためか、陸路を利用することが多かったようである。中川氏が幕府に差出した「道程之覚」には「岡より豊前国 内里(だいり)(大里)まで陸路三十八里余、但、是より長門国下関ぇ相渡り中国海道往還仕候」と記している。そして大坂−江戸のコースについては「東海道 中仙道 美濃路、右三筋は中川因幡守、稲葉能登守、木下右衛門大夫、毛利周防往還仕候、東海道 美濃路、右二筋は松平日向守往還仕候」と報告している。諸大名は幕府直轄の五街道以外の脇街道を利用する場合は、事前に幕府に申請する必要があったが、岡 中川氏は伊勢路を通ったこともあり、佐伯 毛利氏は上記の他に佐屋路を通ったこともある。二豊八大名の参勤 帰国に要した日数をみると、 中津藩 は31〜38日、 杵築藩 は23〜29日、 日出藩 は22〜42日、 府内藩 は23〜47日、 臼杵藩 は36〜42日、 佐伯藩 は21〜36日、 岡藩 は30〜46日、 森藩 は39〜40日のように所要日数に大きな幅がある。これは特に海路の場合、風待ちや潮待ちをしなければならなかったためで、佐伯藩と臼杵藩は佐賀関上浦港で、日出藩は深江港で滞船することがあった。なお、豊後国内に参勤交代道路を持っていた岡藩と森藩では、前者は岡− 今市(いまいち) − 三佐港 または岡− 犬飼 (川舟)−三佐港、後者は森− 今宿 − 頭成(かしらなり)港 のコースを通っていた。参勤交代に要する経費と江戸藩邸維持費に藩収入の約70%が必要であったと、 蒲生君平(がもうくんぺい)は『 不恤緯(ふじゅつい)』(文化4年=1807)で述べているが、実際の参勤の 供揃(ともぞろ)えと経費はどれくらい必要だったのだろうか。まず供揃えをみると、10万石の中津藩は馬上10騎、足軽80人、 仲間(ちゅうげん)人足140〜150人、5万石以上の岡と臼杵藩が馬上7騎、足軽60人、仲間人足100人、4万石以下の杵築 日出 府内 佐伯 森の5藩は馬上3〜4騎、足軽20人、仲間人足30人だった。そして天保10年(1839)の府内藩の参勤経費が502両、臼杵藩の同年の帰国経費が1,069.2両であった。
〈絵馬に見る勇壮な参勤船団〉
鶴崎を瀬戸内への玄関口とした 熊本藩主 細川氏 の、 御座船(ござぶね) 波奈之(なみなし)丸 を中心とした参勤交代 絵馬 が鶴崎 剣(けん)八幡社 と佐賀関 早吸日女(はやすいひめ)神社 に奉納されており、三佐港を入帆する岡藩中川氏の御座船 住吉丸 を中心とした絵馬が、三佐 野坂神社 に奉納されており、ともに参勤交代時の様子を伝えている(『大分県史』近世W)。
[佐藤 満洋]
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