産業組合 ( さんぎょうくみあい)
農業協同組合・信用組合の母体
明治33年(1900)に公布された産業組合法によって設立された 協同組合 。信用 販売 購買 生産(のち利用)に関する4種の組合、または兼業組合があった。
〈産業組合の起こり〉
産業組合は、農村に協同組織の必要性を感じていた 品川弥二郎(しながわやじろう) 平田 東助(とうすけ)らがドイツのシュルツェ デーリッチの信用組合に範をえて構想したもので、明治24年第2帝国議会に信用組合法案として提案したが、審議未了で廃案となった。この後、農商務省によって産業組合法案となり、明治33年3月7日公布された。
〈産業組合の普及〉
日露戦争 (1904〜5)後、日本の資本主義の発達のなかで、農村経済の維持 発展をめざす産業組合運動がさかんになり、政府の保護 監督下に全国に普及した。大分県でも日露戦争後に産業組合の設立が本格化し、43年には 産業組合中央会大分支会 が、 千葉 貞幹(ていかん) 知事 を会長に大分県商工課内に設立された。大正期にはいると組合数も200を超え、大正3年(1914)には244組合となった。産業組合は、その事業内容によって信用 販売 購買 生産組合や複数の事業内容によってその名称が異なる。大分支会が4年に調査した222組合中、 信用販売購買組合 が63%、 信用販売購買生産組合 が16%、 信用購買組合 10%で、信用組合を中心に購買 販売 生産活動が主たる事業内容である。組合員の職業構成も、全員が農業者の組合52%、8割以上が農業者の組合39%、農業者は半数以下は5%である。産業組合は、当初7人以上あれば結成できたため、集落単位に設立されたものが多く、大正8年の調査では、49人以下が29%、50〜99人が34%と大半を占めていた。そのため資金力に乏しく、経営不振に陥るものが多かった。大分県は大正2年に専任職員を置き不良組合の整理統合を指導、8年には 産業組合奨励7か年計画 をたて組合育成に努めた。この結果、昭和4年(1929)には組合員99人以下は28%に減少、100〜199人31%、200〜299人14%、300人以上30%と規模が拡大した。
〈産業組合の発展〉
大分県の産業組合にとって、飛躍の機となったのは大正10年5月、大分市で開催された 九州沖縄8県連合共進会 である。このとき 産業組合連合会協議会 が開かれ、県内に産業組合強化の気運が強まった。この協議会での中央機関設置の決議を受けて、産業組合中央会は12年4月に全国購買組合連合会を設立、事業を開始した。この年公布された産業組合中央金庫法によって、中央金庫が事業開始するのは13年9月である。また6年には農業倉庫業法が公布され、産業組合によって 農業倉庫 が設置されるようになると、販売事業が本格化する。大正期は、大分県内に鉄道網が整備された時代である。鉄道の開設につれて、各駅前に農業倉庫が建設される。昭和4年には、 大分県販売購買組合連合会 が設立されている。
〈農会 農事小組合と産業組合〉
農業を基盤とする組織には、 農会 農事小組合 産業組合の3つがあった。農会は技術指導 農産物の自主統制を担当した機関である。大分県では、明治28年 大日本農会 幹事長 前田 正名(まさな) の指導のもとに 大分県農会 が設立、43年に 帝国農会 の成立によって大分県農会もその下部組織となった。大分県における農事小組合は、大正3年に地域を単位とする農事小組合の設立奨励が郡市農会職員会で決定、着手された。目的は農事改良の実行、農家経済の発展、文化生活の向上、共存共栄による農村振興であった。事業内容がよく似た産業組合との違いは、産業組合が組合員の出資、有限 無限責任など法的義務を持つ登録団体であるのに対し、農事小組合は法的規制を受けない団体であることであった。
〈昭和恐慌 戦争と産業組合〉
昭和5年にはじまる 農業恐慌 は、農村経済に大打撃を与えた。その対策としてすすめられた 農山漁村経済更生運動 の中核となったのは、産業組合である。悪化した農村経済に対し、金融面でも、販売 購買などの生活面でも、苦境を克服する力を産業組合がになったのである。7年には産業組合法を改正、これまで法的規制を受けなかった農事小組合を簡易法人として認可、産業組合の強化が図られた。8年には農村負債整理組合法によって負債整理組合が設立されていくが、その大半は産業組合の仕事であった。こうした産業組合の活動に対し、商工業界からの反対=反産運動も起こった。11年の 大分県米穀商総会 での産業組合偏重国策反対決議、14年の肥料配分問題などである。戦争の激化とともに、産業組合は戦時統制経済の機関となるが、18年12月、農会と合併して 大分県農業会 となり、戦後は 農業協同組合 となった。
[佐藤 節]
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