石垣原合戦 ( いしがきばるかっせん)

去就を誤った大友義統

〈義統の赦免と豊後帰国〉
 文禄2年(1593)前年の 文禄の役 の際の不行跡をとがめられ 改易(かいえき)となっていた 大友 義統(よしむね) は慶長3年(1598)豊臣秀吉が没するや、 後陽成(ごようぜい)天皇の 大乳人(おおめのと)であった姑 大弐(だいに)と改易後 後水尾(ごみずのお)天皇の乳母となった妻少納言の尽力などによって赦免となった。赦免後、義統は配所の水戸を出発し、江戸牛込の長子 義乗(よしのり) のもとに身を寄せた後赦免にかかわった人々へのあいさつのため上洛の途につく。この間義統は宿を点々としており、住所不定といっていいほどの状況であった。同5年 増田長盛(ましたながもり) から大坂天満に屋敷を与えられこの状況を脱する。これは、秀吉の死後権力をめぐって展開される徳川方と豊臣方のせめぎあいのなか、豊臣方が義統を味方に引き入れようとする方策とも取ることができよう。この年徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)の対立は風雲急を告げるものがあった。家康は五大老の一人上杉 景勝(かげかつ)の討伐を命じ自ら出陣し、これに呼応するかのように石田 三成(みつなり)は大坂城に入り 毛利 輝元(てるもと) を盟主に迎え、西軍に呼応する大名を募った。こうした状況のなか、義統には輝元より西軍への加担が勧めらた。種々の記録には義統の胸の内に東軍に与する気持ちがあったことを伝えている。しかし、 秀頼(ひでより)から豊後国一国の 安堵(あんど)を得たこともあり、結局は二男と一族の者を人質に出し西軍に与することとなった。こうして義統は秀頼より 槍(やり)や 鉄砲 など当面の引出物を与えられ、多くの浪人を召し抱え、豊後国へ向かった。この帰国の途中にも 中津城主 黒田 如水(じょすい) や家臣の 吉弘 統幸(むねゆき) から東軍への加担を説得されたが聞き入れなかった。義統の帰国は東軍の 加藤 清正(きよまさ) より 木付(杵築)城 を守っていた 細川氏 の家臣 松井康之 有吉 立之(たてゆき) に知らせられ、両名は城の普請 武器の用意を行い、領内の庄屋 頭百姓を人質にし義統の帰国に備えた。
〈戦いの経過〉
 慶長5年9月9日義統は旧家臣らが彼の到着を待つなか、別府浦に上陸し立石村に陣を構えた。立石村は大友氏ゆかりの地であるとともに背後に 朝見川 をひかえる要害の地でもあった。同日黒田如水は豊後に向け出陣した。10日夜、吉弘統幸らの軍勢は木付城に夜襲をかけた。結果は吉弘軍の敗退におわり、石垣原への移動を余儀なくされた。11日になると如水は義統の討伐を第一に行うべきだと重臣に主張し急いで石垣原へと向かった。13日になると木付城の守備隊であった松井 有吉軍と援軍の 時枝平太夫 は 鉄輪(かんなわ)山 (別府市)に結集したのち立石に向かった。松井 有吉軍は鶴見村から 実相寺(じつそうじ)山 を経て、時枝軍は谷間の道を立石へと向かった。これに対し大友方の先手も出陣し、5町(約550m)の距離を隔てて対峙した。両者はしだいに接近し戦端を開いた。まず大友軍が時枝軍に発砲しようとしたとき、松井 有吉軍が実相寺山をかけおり攻撃を仕掛けた。これを受け大友軍は敗走。そこを時枝軍に追い打ちされた。大友軍は立石に集結し鉄砲中心の攻撃に切り換え、時枝軍に打撃を与えた。一方松井 有吉軍の本陣実相寺山には吉弘統幸に率いられた一隊が攻撃を仕掛けるが、激戦のうち統幸は戦死した。この日の戦いは3度を数え、大友軍は敗軍をまとめ立石に退いた。この日、日出まで進んで来た黒田如水には合戦の勝利が知らせられ彼は同夜実相寺山に陣を敷いた。また熊本の加藤清正にも 木付城合戦 の報がもたらされ彼は木付救援のため先発隊を派遣した。14日如水は軍議を開き大友軍攻撃の策を決定した。一方義統は連日の激しい戦いで重臣を多く失ったこともあり、大友家とゆかりのある 母里太兵衛(もりたへえ) を通じて降伏を申し出た。義統は夕方 剃髪(ていはつ)染衣の姿で母里太兵衛の陣所に出頭した。その後、死一等を減じられ 常陸(ひたち)国へ流されたのである。
〈戦いのもつ意味〉
  関ヶ原の戦い の直前に行われたこの戦いには九州の地での局地戦に止まらない大きな意味があった。それを『別府市誌』は次のように述べている。@石垣原の戦いを期して、九州支配の実権が徳川方に移った。少なくとも九州東北部一帯の実権が徳川方の黒田氏に移った。A豊臣方についた大友氏の敗退は、直後に行われた関ヶ原の戦いにおける東西両軍 九州各地の大名の 帰趨(きすう)に大きな影響を与え、東軍勢力の拡大に役立った。B九州における中世から近世への開幕が石垣原の戦いを境になされた。C石垣原の戦いは江戸時代における黒田氏の地位と豊後国の小藩分立という政治体制の現出を招いた。直後に行われた関ヶ原の戦いは単に東西両軍の雌雄を決するというものではなく、豊臣体制を否定し徳川体制を創出するという大きな意義をもっていた。そういう意味からも石垣原の戦いは 太閤 蔵入地(くらいりち) であった豊後国に徳川の権力を浸透させるという大きな意味があったといえよう。
[一法師 英昭]

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