宇佐郡三十六人衆 ( うさぐんさんじゅうろくにんしゅう)
三十六人衆は実在したか?
〈 編纂(へんさん)物による記述内容〉
弘治元年(1555)10月 毛利 元就(もとなり) は 陶晴賢(すえはるかた) を誅し、同3年4月3日、 大内 義長(よしなが) ( 大友 義鎮(よししげ) の次男)は長府長福寺にて自殺。大友氏は、「大友 大内御両家御一躰」という関係を利用して 宇佐郡衆 の掌握を狙っていた。後世に編纂された「 両豊記 」によると、弘治2年(1556)4月28日大友義鎮は1万2千余騎の軍勢を従え速見郡 鹿鳴越(かなごえ)を経て、豊前国宇佐郡 龍王(りゅうおう)城 ( 安心院(あじむ)町)に押し寄せ、ここを本陣と定めた。この時、宇佐郡の36人の士が大友氏の軍門に降ったと記述している。宇佐郡三十六人衆に関する史料は、 香下(こうした)家(院内町)と吉村家(宇佐市)にあるが、両史料の 苗字(みょうじ)が完全に一致していない。また、『宇佐郡地頭伝記』によると、矢崎村(安心院町)の飯田嘉惣治所蔵の史料に、「宇佐郡小給人天文中記録」と題するものがあり、渡辺完所蔵に「天文中小給人三十六人」、元重村(宇佐市)川谷某所蔵「天正年中改宇佐下毛両郡小給人名主書」があったとしている。
〈三十六人衆の構成〉
尾立惟孝は『宇佐郡地頭伝記』の中で、三十六人衆の家を明確にし、出自 由緒等をまとめている。それによると、苗字と本姓及び居住地は次ぎのように想定している。 城井(きい)氏 (藤原姓) 安心院氏 ( 宇佐姓 上市村) 松木氏 ( 清原姓 疊石村) 深見氏 ( 大神(おおが)姓 水車村) 斎藤氏 (藤原姓 斎藤村) 原口氏 (清原姓 原口村) 飯田氏 (源姓 飯田村) 高並氏 (藤原姓 高並谷) 津房氏 (藤原姓 尾立村) 佐田氏 (藤原姓 佐田荘) 副氏 (藤原姓 副村) 香志田氏 (源姓 香志田村) 矢部氏 (大神姓 矢部村) 大薗氏 (妙見氏ともいう、姓不詳 拝田村) 広崎氏 (平姓 中原村) 渡辺氏 (源姓 四日市村) 上田氏 ( 紀姓 上田村) 是恒氏 (姓不詳 畠田村) 吉村氏 ( 今井氏 ともいう、宇佐姓 今井村) 都留氏 (藤原姓 高森村) 橋津氏 (藤原姓 橋津村) 真加江氏 (宇佐姓 江島村) 相良氏 (藤原姓 川部村) 麻生氏 (宇佐姓 麻生郷) 木内氏 (紀姓 木内村) 元重氏 (河谷 川谷氏ともいう、源姓 元重村) 赤尾氏 ( 大蔵姓 赤尾村) 佐野氏 (宇佐姓 佐野村) 萩原氏 (大神姓 上敷田村) 時枝氏 (仲原姓─時枝村) 櫛野氏 (藤原姓─櫛野村) 荒木氏 ( 乙 (おとめ)氏 ともいう、宇佐姓 荒木村) 津々見氏 (藤原姓 高家(たけい)郷) 照山氏 ( 広山氏 ともいう、田部姓 広山郷) 中島氏 (源姓 高家村) 恵良氏 (大神姓 西恵良村)。但し、尾立氏は「両豊記」や「宇佐郡記」「 香下文書 」の三十六人衆に賀来次郎が記載されているにもかかわらず、飯田嘉惣治所蔵史料から賀来次郎の代わりに恵良小次郎を採用している。小野精一は尾立の説を踏襲し、『大宇佐郡史論』にそれぞれの名前を紹介しているが、その根拠については何も触れていない。
〈橋本操六による史料批判〉
宇佐郡三十六人衆の初見史料は、香下文書である。同文書によると、弘治2年秋と書かれ、「大友宗麟公豊前国龍王山城御在陣宇佐郡三拾六人著到」 とあり、三十六人の人名を列挙している。この宇佐郡三十六人衆研究の発端は、『大分の歴史』 所収の 「戦国大名大友氏」 で、香下文書を疑問視している。つまり、大友義鎮が入道して 宗麟(そうりん) と名乗ったのは永禄5年(1562)のことであり、宗麟と名乗った時期が合致せず、香下文書は永禄5年以降に作成されたものであると結論づけたのである。これを受けて、橋本操六は『院内町誌』により、宇佐郡三十六人衆に対する厳密な史料批判による研究を発表した。@天文20年(1551)から弘治3年(1557)までの同姓の武士を検出すると、『大宇佐郡史論』と名前が一致するのは 吉村弥六左衛門哉勝 だけで、外は全く史料上の人物とは一致しない。A永禄5年(1562)から同10年までに、苗字と官途が一致するのは 佐田 弾正忠(だんじょうのじょう) であるが、それも人名が一致せず、外は全く史料上に確認できない。B 副但馬守(そいたじまのかみ) は三十六人衆の一人であるが、弘治2年5月4日ころ、大友家に反旗を翻した残党が副但馬守の宅所に切り入り、彼は11名すべてを討ち取ったが深手を負い死去。子息鎮安は弘治3年3月13日時点では兵部丞、永禄5年8月16日において越中守を名乗っており、副但馬守と同一人物ではない。C大友 大内両家は御一躰という間柄であり、宇佐郡衆が龍王城に出向いて降伏する理由が何もない。当時の他の史料に宇佐郡三十六人衆という表現が全く認められない。以上の諸点から、宇佐郡三十六人衆の関係史料は後世の作成であり、三十六人衆は実態のない架空の存在であったことが証明された。 黒田氏 が豊前六郡に入部した段階で、かつての 国人領主層 も百姓身分となったが、特に 庄屋 として農村支配機構の末端に位置づけた。しかし、黒田氏は彼らの家の名誉を保持させるため、 宇佐宮 の儀式に参加する三十六武官に任じたのである。ここに、三十六人衆の存在を示す史料がどうしても必要となり、後世に文書を作成したものと推察される。
[乙・ 政已]
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