山弥長者 ( さんやちょうじゃ)

西国にならびなき長者の行方とは?

 大分地方に伝わる長者伝説に「山弥長者」の話がある。友達の夢を買ったサンヤ(山弥 三弥の字を当てる、また山弥之助ともいう、姓は守田あるいは古田などといわれている)が夢のお告げのとおり金の大鉱脈を探り当て西国一の長者になったが、あるときに城主 日根野吉明(ひねのよしあきら) の怒りを買い、一族もろとも処刑されたというものである。これと似た話が貞享5年(1688)に出版された井原 西鶴(さいかく)の『日本永代蔵』に「国に移して風呂釜の大臣」と題されて紹介されている。ここでは豊後の 府内 に住む 萬屋(よろずや)三弥 なる人物が、荒地に菜種を蒔いて多くの収穫を得たのをきっかけに、新田経営を行って蓄財をなし、それを元手に上方との船商いを始め、ついに西国にならびなき長者へ成長したことが記されている。この二つの長者話は、ともに府門の豪商 守田山弥之助 氏定(うじさだ) という実在の人物をモデルに描かれたものであった。
〈山弥長者のモデル〉
 守田山弥之助については、現大分市金池町にある 大智寺(だいちじ) に、今は摩滅して判読できないが、「俗名守田三彌之助氏□」と刻んだ 逆修塔(ぎゃくしゅとう)(生前に死後の往生 菩提(ぼだい)を願って造った墓碑)が現在残っており( 久多羅木儀一郎(くだらぎぎいちろう) 「守田三彌之助逆修塔」『史蹟名勝天然記念物調査報告書』第9輯)、また同寺の 回向(えこう)帳には「幻室宗勸居士」の戒名と並記して「正保4年(1647)4月俗名守田山弥」とみえ、『守田家過去帳』(前掲久多羅木論文内に掲載)には延享3年(1746)「守田三彌之助」の百年忌を大智寺で行ったことが記されており、その存在を裏付けることができる。 守田氏の系譜については、大正4年刊行の『大分市史』では、本姓は多々良で 大内氏 の支系に当たり、大内氏に属して豊前 松山城 に居していたが、12代氏信の弟氏宗は 府内藩主 竹中伊豆守 重隆(しげたか) の招きで豊後府内へ移り住んで商人となり傅左衛門を名乗った、その後2代目傅左衛門氏壽−「山彌助氏定」と続いたと記されている。また『守田家系譜』(行橋市守田家)によると、13代氏吉の弟吉宣は一時 剃髪(ていはつ)し洞雲と称したが、のち 還俗(げんぞく)して豊後府内に住んだとあり、豊前から移住した守田氏の支族がいたことを伝えている(若杉昌昭「山弥長者伝説の歴史性」『大分県地方史』第118号)。
 山弥之助については、元禄7年(1694)豊後を訪れた 貝原 益軒(えきけん) の紀行文『 豊国紀行 』に、日向国の銀山経営で富を得た「古田山弥」という諸国でも 稀(まれ)な豪商がいたこと、また城主日根野吉明によって処刑されたことを聞き書きしている。それより少し早く、寛文9年(1664)〜延宝元年(1674)に 万寿寺(まんじゅじ) の第4世の職をつとめた僧 乾叟 の見聞録である『禅余集』には、かつて「一巨富」をなした「山弥なる者の一族五人」が 誅(ちゅう)せられたことが記されている。山弥の名はでてこないが、元禄11年(1698)府内の 戸倉貞則 が書き記した『 豊府紀聞 』には、寛永16年(1639) 肥後藩主 細川 忠利(ただとし) を 府内藩主 日根野吉明が饗応する際、その場所として後藤氏や守田氏の屋敷が一時候補にあげられたことが記述されており、山弥之助の姓と同じ守田某がかなり立派な屋敷を構えていたことを物語っている。これら一連の記述は、山弥之助が没した正保4年から約30年〜50年後に書かれたものであり、事実をある程度正確に伝えたものと考えられ(前掲若杉論文)、山弥之助の処刑の後に伊丹屋の屋敷となった彼の邸宅は(『豊国紀行』)、府内の万屋町の一画に2町4方も有するものであったといわれている(大正4年版『大分市史』 昭和30年版『大分市史』上巻)。
  豪奢(ごうしゃ)を誇った山弥之助の経済力の源について、若杉昌昭は確かな史料が全く残されていないなかで考えられることとして、伝承にあるように、当時 南蛮貿易 の交換手段として用いられた銀を獲得できる 銀山 経営にあったのではないかと推察されている。
〈なぜ処刑されたか〉
 山弥之助が処刑された理由について、伝承ではギヤマン張りの天井に飼っていた金魚を、山弥の息子(山弥自身ともいう)が足を以て指し示したため、城主日根野氏の怒りを買い処分されたと伝えている。一方、この山弥之助の 顛末(てんまつ)を初期豪商の没落の一例として捉える見方もある。幕藩体制の成立当初、領主の必要とする物資や労働力を大量に調達できる御用商人は欠くべからず存在として重宝がられたが、城下町が整備され必要な物資が充足されるようになると、領主の統制から逸脱する個々の豪商は逆に有害なものと映ってくる。この結果起きた事件だったというのである。
 山弥之助と同様、府内の豪商として知られた人物に 仲屋宗悦 がいる。中国貿易で莫大な富を得、大坂 堺 京まで支店をもち、「大富人」と呼ばれた(「 大友興廃記 」)。その後宗悦一族は文禄年中(1592〜96)臼杵へ移り、代々町の「年寄」として活躍したという(『大分県史』近世篇T)。山弥之助の場合と対照的な例といえる。
[武富 雅宣]

[さ]メニューに戻る