山林 ( さんりん)

山繁らず候へば、鰯寄り申さず候

〈山の 滴(したた)り〉
  佐伯藩 初代藩主 毛利 高政(たかまさ) は慶長6年(1601)入部以来、領内統治のために積極的な政策を展開する。慶長13年には「在々近辺」で田畑になるような所に竹木があれば、 悉(ことごと)く切り払い、「 起(おこし)」(すき)にするようにといい、田畑の開発を命じている。一方、山桃 梅 梨など果樹は「材木にも薪にも」切ることを禁じている。ところが、元和9年(1623)につぎのような法令を出した。
1 その浦組中、山焼き候事、当年より堅く無用に候、その子細は、山しげらず候へば、いわし寄り申さず候旨、聞き届け候、その上井手がかりにてこれ無き山田などは、山のしたたりを以って、少しは、た(足)りになり候に、木草なく候へばしたたりも無く候間、山焼き候事必ず無用に候……
佐伯藩にとって最大産業の 鰯(いわし)漁における「魚つき林」の重要性、水路 潅漑(かんがい) でない山田の水源としての山林の意義などから「山焼き」を禁じている。ひたすら開発を進めてきた、これまでの政策の修正といえよう。それは、ある意味では山林資源の多方面での有用性を物語っている。
〈農業の父母〉
 大分市の高田地区は 大野川 乙津川 に挟まれた「 輪中(わじゅう) 」に位置している。ここは、川に挟まれながら、水利および山林に恵まれず、畑作地帯であった。明治44年(1911)に作られた『高田村是』では、「耕地トシテ水田ナク、又農業ノ父母トモ云フ 可(べ)キ林野ナキハ普通農村ト大ニ 趣(おもむき)ヲ異ニスル所」と山林のないことの不利を述べている。この地域の村々は、「山林原野なき故、薪 秣(まぐさ) かしき(刈敷)等至って乏しく、薪は買もとめ、又ハ作がら(殻)等にて用を弁ず」(『豊後国村明細帖』9)と、燃料 飼料 肥料に不自由していることがわかる。燃料は購入や作物の殻でなんとか賄えた。しかし、飼料や肥料の確保には山林は不可欠であった。そのため、他領の山に入らざるを得なかった。大野川の下流右岸は山林が多かった。この地域はほとんどが臼杵藩領であった。 臼杵藩 では山へ入ることのできる鑑札( 野山札(のやまふだ)という)を他領へ447枚(肥後領264、公料82、延岡領101)発行し、1枚につき1年銀2匁2分徴収している。臼杵領内にも415枚発行しているが、1枚1匁であった。ほかに、庭莚を納める村もあった。こうした負担をしてでも人々の暮らしにとって、山林は必要だった。
〈吉例松植え〉
  杵築藩 が延宝7年(1679)に出した「郷中仕置之条々」では「山林の竹木、札なくして一切 剪採(きりと)るべからず」と規定している。翌8年の施行細則「郷中三拾五ケ条外定控」にも「山方定」として24か条がある。杵築藩では、藩有林(御立山 御上り山 御林)の伐採は一切禁止。藩の山管理の責任者は山奉行、各 手永(てなが) では 山の口 (帯刀許可)。藩の普請 用水普請など公用で伐採するときも山奉行 山の口が最終的に見届けること。そのほか、竹木の売買など山林に関して細かい規定がある。近世の山林制度では、たとえ農民の私有林の立木でも自由な伐採はできず、山の口などの許可が必要であった。また、藩の公用材木として指定された場合(帳付け木などという)には、木だけが藩有木となることもあった。しかし、杵築藩では15年以内の「百姓自分植松」が、藩用に使われる場合は、別の松が藩から与えられ、15年以上経ったものは枝 葉が植え主に与えられることとなっている。また松の枝 葉は15年間は植え主のものとなっている。ここでいう「百姓自分植松」とは杵築藩 島原藩領など国東地方で正月11日に村行事として行われていた「吉例松植え」で植えられた松を指している。こうした特典があったためか、松植えには必要以上の植樹があったようで、寛延元年(1748)からは1軒につき10本づつに減らすようにと命じている。
〈炭と 樵木(こりき)〉
 燃料資源としての山林からの製品の代表的なものとして 木炭 がある。 佐伯藩 での炭の生産は二つの形態で行われた。一つは、藩から 炭焼き 人に資金が貸し与えられ、製品を納めさせ、藩が販売する方式である。主として藩有林 黒沢山 で行われ、製品は堅田村(佐伯市)の炭蔵に納め、大坂など各地で売り 捌(さば)いている。今一つの方式は、商人が一定の 運上(うんじょう)銀 を納めて、製造から販売までを一手に請け負うものである。日向の 石見(いわみ)屋という者は、赤木村(直川村)で宝永2年(1705)から5年間で炭8万俵の焼き出しを、銀20貫上納で請け負っている。樵木薪のおもな消費先は製塩地であった。最大の産地である瀬戸内地方へ出荷するためには輸送が大きな課題であった。堅田川や 番匠(ばんじょう)川 上流から川流し(流樵木という)で、河口近くの江頭 土器屋(佐伯市)の木場に集められて、廻船や商人に販売された。また交通の便のよい沿岸地域(浦方)からも樵木は出荷された(浦方樵木という)。18世紀末では浦方樵木の方が多い。このように山林資源の恩恵は大きかった。
[豊田 寛三]

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