在町 ( ざいまち)
街道筋の店屋
城下町 は藩の経済中心地として城下町人を核とした様々な経済活動が活発に営まれた所である。これに対して「 在(ざい) 」、つまり農村は農業生産の場所として生産活動が展開された地域であり、原則的にはここでの商業活動は厳しくおさえられた。しかし、交通の要衝にあたる場所を中心に物資の集散や宿場的な機能の必要性から、特定の場所に限って商業活動を許すことも少なくなかった。このように農村にありながらも、城下町に似て一定の商業活動の許された村を「在町」という。
〈野津市と三重市〉
野津市 や 三重市 のように、県下各地には「市」のつく地名があちこちにみられる。 戸次(へつぎ)市 、 稙田(わさだ)市 、 今市(いまいち) 、 四日市 などがそれである。これら地域は多分にかつて定期的に市日が催されていた、いわゆる 定期市 に起源するものも少なくない。野津市は享保18年(1733)に「日を積もり(定めて)市立ち」する願いが出され、四と九のつく日に市( 六斎市(ろくさいいち) )が催されている(のちには一、六の日に変更)。野津市は 臼杵城下 と大野郡地域(三重や竹田など)を結ぶ交通の要衝であり、すでに戦国時代から「豊後の国境にある重要な地方」(『耶蘇会士日本年報』)として注目されていた。このような交通の要地で、人の多く往来する所に定期市が成立したは当然である。同様な例は三重市にも当てはまる。三重市は日向国へ向かう古代の 三重駅 に由来する交通の要衝で、 竹田城下 への分岐点にもあたる。ここでもまた六斎市が開かれていた。天明7年(1787)三重市の村人たちは、「近年六斎市日に他所、他村から商いの者が入り込んで勝手に商売をするため、たいそう迷惑を 蒙(こうむ)っている」として、 臼杵藩 庁にその取り締まり方を願い出ている。取り締まりの対象として塩、 小糠(こぬか)、木綿、カラツ物、 鱗(いら)(魚鱗肥)、 種子(なたね)、 胡麻(ごま)、 荏子(えごま)大豆、麻苧、大麦、小麦、 籾(もみ)、粟をあげているが、在町における商活動の一端を伝える品々である。
〈各地の在町〉
「(別府は)ながながしき在町にて、家 毎(ごと)に湯あり」(「 西遊雑記 」)とは、天明3年(1783) 古川 古松軒(こしょうけん) のみた湯の町別府の感想である。また 宇佐神宮 の門前町宇佐村については、「すこし町屋あれども、誠の在町にて茅屋のみなり」(同上)とも述べている。 四日市代官所 の置かれた四日市村は享和2年(1802)当時、四日市町として「人家百軒計。多く茅屋にて町並よからず」(「筑紫紀行」)という、宇佐と同様ひなびた在町の様子であった。 高松代官所 は高松村(大分市)に置かれたが、もともと 松平 忠昭(ただあき) (ただあきら、ただてる)(松平 府内藩 初代)が居館を定めて街場が形成された村で、高松町とも呼ばれた。野津原町や今市村(野津原町)は 宿場町 の性格を持った在町である。どちらも 肥後 往還(おうかん) に沿う在町で、野津原町は 熊本藩 の宿場町として 本町 、 古町 、 新町 などの町が形成された。また今市村は 岡藩 の宿場町として設けられた所であり 上町 、 下町 の二つの町が敵襲に備えてカギの手状に配されているのは野津原町の場合と同じである。 犬飼 は大野川中流域に位置する岡藩の物資集散地である。大野、直入郡内から集められた物資はここから 大野川 を舟運で積み下し、河口の港町 三佐村 (大分市)に運ばれる。また岡藩主の 参勤交代 もこの両所が基地となった。岡藩では代表的な在町である。 下ノ江村 (臼杵市)は臼杵藩、 佐賀関村 は熊本藩、 頭成(かしらなり) ( 日出(ひじ)町)は 幕府領 と 玖珠藩 入り交りの港町であった。「西遊雑記」には佐賀関は、「市中五百軒ばかり、よき船がかりの湊」、頭成は「此辺の交易所にて商船の入津」する500軒余の港町と記している。広い意味でこのような港町もまた在町の一つに数えられる。 長目村 のうち 伊崎 (津久見市)は 津久見湾 の北位する海辺の村である。臼杵藩では享和元年(1801)ここに伊崎御買場を設けて魚荷の集荷を行う一方、酒、米酢、 醤油(しょうゆ)、紙、網など生活必需品の商売を始めた。やがて幕末には「在町の差別なく、下ノ江出店」と同じ様に店を構えて盛んに商活動が展開されるようになった。
〈在町の振興策〉
18世紀の後半、いずれの藩も財政難の打開に向けて新たな収入源を求めるための諸施策を展開した。臼杵藩ではその一方策として、交通の要地を中心に在町の振興に力を入れる政策を展開した。いわゆる農民的余剰を率先して吸収しようとしたわけである。このため戸次市、稙田市、 森町 、 王ノ瀬 (大分市)の地域において酒、油、小間物、穀物、歩質(藩営質屋)などの営業を奨励した。このうち稙田市についてみると、この地が肥後 竹田 乙津 鶴崎 府内 高松などの「中道」にあって交通上優位な位置にあることから、「御利益」のあがる絶好の場所であるとして、ここでの商活動を奨励する。こうした振興策もあって、たとえば戸次市や 乙津市 などで富商が増え、このため鶴崎町では人出が次第に少なくなって次第に衰えるようになったともいう(「 高田風土記 」)。
[秦 政博]
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