集石遺構 ( しゅうせきいこう)
縄文人の調理場
縄文時代早期の遺跡を発掘すると、こぶし大の焼けた石が1か所に集められた遺構がよく見られる。これが集石遺構あるいは 集石炉 と呼ばれるもので、同様のものは旧石器時代や縄文前期の遺跡でも見うけられる。
旧石器時代の集石遺構については、炉とされるものと墓地( 集石墓 )とされるものがある。前者は、三重町 百枝(ももえだ)遺跡 等で見つかっており、平な地面上にこぶし大の円 礫(れき) 角礫を集めただけの遺構である。この構造は縄文早期の集石炉の一形態にも共通し、集石の半数に 炭化物 の付着が認められることからも炉と判断されるものである。もう一つは、清川村 岩戸遺跡 で発見された集石墓とされるものである。これはこぶし大の礫を略台形に並べた一種の配石遺構であり、下部に土壙とその内部から骨片等が出土したことから調査者により墓地とされたものである。これについては、他に類例のないことや調査法に問題点があること等から疑問視するむきも多い。
〈集石炉のいろいろ〉
縄文早期の集石は例外なく焼けた石の集まりであり、時期によっていくつかの形態変化がみられる。おおまかな形態は、集石の下の扁平な礫を花弁状に敷き並べた炉の基底部(床石)をもつものとそうでないものとに大別できる。さらに集石だけのものは、下部に皿状の掘り込み( 土壙(どこう) )の有無に分けられる。
花弁状の基底部は、皿状土壙に花弁状に石を敷いたもので、その上部を焼けた集石が覆っている。この種の集石炉は挾間町 下黒野遺跡 、大分市 野田山遺跡 、野津町 新生遺跡 等の縄文早期前半の遺跡で検出されている。とくに下黒野遺跡の床石は見事な花弁状を示し、その石は大分川の河床から持ち込まれたと思われる扁平な円礫である。新生遺跡では対称的に 凝灰岩(ぎょうかいがん) の角礫を配しており、地域の特色を見いだすことが出来る。
一方、掘り込みの中に花弁状の床石をもたず小礫だけの集石炉は時期的にはほぼ併行するものの大勢は後続する。形態としては、床石を省いた形であり、大きな床石の持ち込みを考えた場合、大幅な省エネルギーであったと思われる。さらに時期が新しくなると掘り込みも持たない平坦な地面上に集石だけというものが主体を占めるようになる。床石も掘り込みも省略した形であり、最も簡単な集石炉ということができる。
〈集石は焼石料理の調理場〉
では焼けた集石は何に使われたのであろうか。そこで思い出されるのが、南洋諸島で現在も盛んな「石蒸し料理」であり、アメリカインディアンの調理法「ストーン ボイリング」である。石蒸し料理は、掘り凹めた地面に大きな植物の葉を敷き、葉でくるんだ食物の間に葉で包んだ焼石を挟み、それを完全に葉で覆って蒸し焼きにする調理法である。
ストーン ボイリング法は、食物と水の入った容器の中に焼いた石を直接ほうり込んで煮沸させる調理法である。この方法は、土器を持たないアメリカインディアンが、 樺(かば)の皮の容器で行っており、日本でも新潟県の 粟(あわ)島では「ワッパ汁」として、海岸で小石を焼いて作るストーン ボイリング法が行われている。これらは古い料理法の伝統をひくものと思われる。
縄文早期の三つの形態の集石炉が、石蒸し法(アースオーブン法)によるのかストーン ボイリング法に使用されたのか、判断はむずかしい。あるいは両者と全く異なる使用法があったのかもしれないが、推測の域を出ない。
〈特殊な集石遺構〉
別府市 十文字原遺跡 で発見された集石遺跡は、縄文早期の集石の中でも特殊な性格をもっているものと思われる。ここでは、扁平な大型礫7〜8個を径4mの円形に配した中に、集石とその下部に花弁状の扁平礫をもち、さらにその下部に掘り込んだ土壙内の周囲に角礫を並べるといった手のこんだ集石遺構である。また土壙内からは精巧な 打製 石鏃(せきぞく) が1点出土しており、特殊な配石遺構とした方が適当である。周囲に配した扁平礫も当初から中心部が凹んでいたのでなく、下の土壙に後で落ち込んだと見た方が自然である。これと同様の形態の集石が他に2基近接しており、その形態からみて早期の配石墓もしくは集石墓とした方が自然である。これは、十文字原遺跡の集石に焼けた痕跡が見られないこともその根拠となっている。
参考文献 天瀬町教育委員会『平草遺跡』
[清水 宗昭]
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