宗門改め ( しゅうもんあらため)

世界一の人口調査

 江戸時代に キリスト教 を禁止するために全国的に行われた制度。幕府 諸藩が、領民個人ごとに信仰する寺院の 檀家(だんか)であることを当該寺院に証明させたもの。
〈全国で宗門改めが実施〉
 当初は キリシタン を摘発するために臨時に局地的に施行された。慶長19年(1614)京都所司代板倉勝重が 転(ころ)びキリシタン から寺手形を取ったのが 寺請制度 の始まりであり、寛永12年(1635)幕府がキリシタン宗旨改を下達したことにより寺請制度は全国的に実施されることになった。さらに幕府は、寛永17年に宗門改役を設置し、 寛文4年(1664)諸藩に対して宗門改役の設置と毎年宗門改めの実施を命じた。これ以降、「 宗門改帳 」が毎年各地で作られることになった。宗門改帳は、キリシタン禁制の宗門改めと、夫役負担の人別改めとを複合して、村ごとに作成し領主に提出した戸籍台帳である。宗門改めの制度は、明治6年(1873)明治政府によるキリシタン禁制の高札撤廃まで続けられ、人別改め的な側面は明治5年の 壬申(じんしん)戸籍へと受け継がれていった。
〈戸籍台帳としての宗門改帳〉
  時枝領 においては、毎年正月に宗門改帳が調えられて3月までに時枝役所に提出されていた。幕府領 諸藩領においても同様に、原則として毎年3月までに宗門改帳を作成し、代官や領主に提出するものとされていた。宗門改帳には、家ごとに全員の名前 年齢 続柄が記され、持高や所持する牛馬などが付されている場合もあった。改帳の最後には、寺院の住職が記載されている者はすべて自分の檀家であってキリシタンでないことを証明し、村の 庄屋 組頭が一人ずつ宗門改めを実施したことを明記している。人別帳の最初のものは、 細川氏 が慶長14年(1609)以降行った「 小倉藩 人畜改帳(じんちくあらためちょう) 」であるが、近世中期以降キリシタンの摘発が激減していくなかで、宗門改帳は人別帳としての役割を主とするようになっていった。全国で同じような宗門改めによりすべての人が登録されたことは、当時世界一の人口調査ということができる。
〈宗門改帳は語る〉
  幕府領 城後(じょうご)村(直入町)における明和6年(1769)の「宗門改帳」(県立大分図書館所蔵「 田北家文書 」)に、記載されているのは20軒及び 智願寺(ちがんじ) であり、家ごとに戸主を筆頭に全員の名前 年齢 続柄 檀那寺(だんなでら)、各家の持高が記されている。持高をみると、最高43石余から最低6斗弱まで様々である。最大の高持は庄屋丈左衛門であり、軒別人数も最高の46人である。そのうち9人は丈左衛門家族 従弟家族などの直系傍系家族であり、残りは下人 下女である。下人 下女には「譜代」7人と年季奉公人30人とがいた。このように各家の状況をみることのできる宗門改帳は、個人レベルにまで及んだ近世農民生活史を解明するためのの史料の宝庫ということができる。今後の研究において、宗門改帳の利用が大いに望まれる。
〈娘はつが結婚に持参した書類〉
 「送り手形」 「宗旨手形」 「請込手形」などとよばれる書類がある。嘉永3年(1850)3月、 森藩 領岩室村(玖珠町)の佐蔵の娘はつが、近郷の 日出生(ひじゅう)村(玖珠町)の伊八のもとに嫁ぐことになった。そのとき持参した書類が送り手形と宗旨手形である。送り手形は、岩室村庄屋がはつの名前 性別 年齢 嫁ぎ先を記した身元保証書であり、日出生村庄屋にあて日出生村の村人に加えることを要請したものである。宗旨手形は、はつの檀那寺住職がまちがいなく自分の檀家であることを証明したものである。この2通の書類を持ってはつは嫁いだが、その後日出生村庄屋からはつを自村に受け入れたことを証明した請込手形が、岩室村庄屋のもとに届いた。そして翌年からはつは伊八の女房として日出生村の宗門改帳に記載されたのである。このように、農民が他村に嫁入り 婿入り 養子入りなどをする場合には、転出証明書としての送り手形 宗旨手形、転入証明書としての請込手形が発行され、該当の村の間で交換されていたのである。これらの書類は、宗門改めを確実に実施し、農民を的確に把握するためのものなのである。
〈宗門改帳記載の意味するもの〉
 文化2年(1805)、 府内藩 領岩下村(庄内町)のうち「新村」とよばれる新開地の農民が本村農民との差別撤廃を要求したが受け入れられずに、農民5人が幕府領野上村杉ノ尾(九重町)に 逃散(ちょうさん) するという事件が発生した。その際、この5人は「除帳」処分となっている。これは、村の宗門改帳から除くことであり、農民の公的身分を 剥奪(はくだつ)するという処分である。公的身分を失うということは無宿者として領主の保護をも失うということである。このように宗門改帳に記載されるということは、諸負担の対象になるという反面、公的身分を認められ領主の保護がうけられることをも意味していたのである。
[佐藤 晃洋]

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