集落 ( しゅうらく)

先史・原始時代のムラ

 「集落」という文字の意味は、谷間から大都市に至るまで、人間の「居」の場所を総称する。地理学的には人家の密集した都市と、そうでない村落とに大別される。さらに村落は家屋の密集、形によって集村、疎村、散村などに区別され、道によって街村、路村などの分類が行われている。また周囲が濠で囲まれている特殊な場合は 環濠(かんごう)集落 とよんでいる。集落は南向きの排水のよい 扇状地 を占めることが最適とされ、谷口の扇状地から 沖積(ちゅうせき)地 への漸移地が理想的な住居地域として選定されたとしている。先史 原始時代にあっては都市型や比較的大きな集落はなく、 ムラ と言う表現であらわすことが適当と思われる。
〈旧石器のムラ〉
 旧石器のムラについては、 石器 の出土状況、石器の種類からみて全国各地に散在していたことがわかる。しかし、これまでのところムラの立地条件、住居状態がはっきりと指摘出来る遺跡の数が少なく、ムラの様子を的確に示す段階ではない。昭和24年(1949)群馬県新田郡笠懸村阿佐美、岩宿遺跡で最初に石器がみつかり、続いて栃木県那須山麓から高原の鳥羽新田遺跡をはじめ数多くの遺跡がみつかったことで、関東平野周辺の山麓地帯にムラが存在していたと推理され、この方面での調査が行われた。しかしここでも旧石器時代のムラの存在を現す遺跡の数は極めて少なかった。
 大分県では昭和37年大分市 丹生(にゅう)台地遺跡 、南海部郡 本匠(ほんじょう)村 聖嶽(ひじりだけ)洞穴 の発掘が行われ、38年に速見郡 日出(ひじ)町 早水台(そうずだい)遺跡 の発掘が行われた。これらの遺跡からは石器等が数多く発見されたものの住居と考えられる遺構を見つけることは出来なかった。旧石器時代の遺跡には 拳(こぶし)大の焼き石からなる石組が見つかることがあり、これを地炉と理解すればその地をムラの一部とみて 地炉(じろ) の数、広がりなどからムラの規模を推察することができる。昭和42年大野郡清川村臼尾 岩戸遺跡 から見つかった焼き石の集石は住居の一部とみてよい。
 九州では昭和41〜49年にわたり調査された鹿児島県出水市上大川場遺跡から円形、 楕円(だえん)形の浅い 竪穴(たてあな)住居跡 が石器とともに見つかったが一部に 隆線文(りゅうせんもん)土器 の出土もあり旧石器のムラと断定することはできないが九州最古の竪穴住居跡である。
 昭和47年福岡県筑紫野市峠山遺跡の旧石器時代後期末遺跡から4か所の地炉が発見されこれを住居と考えれば、九州山脈東西の山麓にかなりのムラがあったものと推理できる。
〈縄文時代のムラ〉
 大分県速見郡日出町川崎早水台遺跡は別府湾に臨み我が国屈指の縄文時代早期の遺跡である。昭和28〜39年に発掘され、高さ31mの低い丘陵地に位置している。出土の土器は縄文早期の 押型文(おしがたもん)土器 に限られており、この土器をだす層をベースとして丘陵東側でまとまりのある柱穴群が見つかった。柱穴を検討してみるとおおかた四つの 建物群 にまとまることが分かった。柱穴は南側、北側にそれぞれ3穴、東側の柱間370pに対して西側は280pと狭い。建物の中央、東西には長い 亀甲(きっこう)形 になる。高さがどれほどになるか分からぬが、北側が狭く、亀甲形の建物から推理して後氷期の西風を防止する構造となる。早水台遺跡では、丘陵の東斜面に西風を考慮した平地の 掘立(ほったて)式住居 が少なくとも4棟立ち並んでいた。これによって縄文早期(8,000年前)のムラが理解できる。
 住居の中では炉がもっとも大切な施設である。縄文時代の竪穴住居跡には竪穴の中央に穴を掘る「土炉」、周囲を石で囲う「石炉」、石のかわりに土器の底を抜いて据える「土器炉」などいろいろあるが、炉の設備をもった竪穴式住居跡が山間の狭い川辺や海岸近くの河川敷から相次いで発見されている。昭和55年中津市犬丸川に沿った 棒垣貝塚 に接して径5mの竪穴住居跡が2基みつかった。周辺の調査によっては数基の竪穴があると推定されるが、ここでは数基の集団としておこう。竪穴式住居のほぼ中央に楕円形の川石数個を円形に配置して石炉を配置している。石炉付近には数体の遺体が放置状態にあり、住居の破棄を暗示していた。竪穴から見つけ出された土器や石器から推測して竪穴式住居跡は縄文後期中葉とみられる。中津市福島地区は低段丘地帯で犬丸川と 山国川 とか三角地帯を形成しここを「古い三角地帯」と述べたことがある。棒垣遺跡を始めとして数個の竪穴式住居で形成するムラが点在していたと考えられる。
 山間の狭い周辺での模式的ムラとして、昭和62〜平成元年(1989)調査の安心院町飯田 二反田遺跡 がある。遺跡は 駅館(やっかん)川 支流の 津房(つぶさ)川 右岸の低い段丘に位置しており、縄文早期の集積遺構と竪穴住居跡5基からなる。この5基の竪穴式住居跡はムラの全体であり、縄文時代のムラ(集落)の単位を知る上で重要であった。
 縄文時代のムラは河川沿いに海岸から山岳部に点在し、海岸地方では主に漁業を、山間では 狩猟 と川漁業を生業とし、共に森での採集を主食としていたことがムラの立地や規模からよくわかる。
〈弥生時代のムラ〉
 縄文時代の終末に北部九州に影響した イネ の栽培技術は弥生時代に広がりをみせ、ムラは高地、段丘、沖積平野に面した微高地に移動し拡大の傾向を示すようになった。耕地の拡大による森林破壊が行われ、水利事業などの労働の集中は血縁を主体とした小さなムラを解体させ地縁関係で結ばれるようになる。さらに収穫の確保からムラごとに周囲を濠で囲む「環濠集落」、独立丘陵を選ぶ「高地集落」などが出現する。このような村落共同体を広域にまとめて支配する小国家の登場の基盤が造られるようになった。弥生中期初頭ごろから漢、三国など中国の影響が強くなり、交流が行われると 青銅器 を初めとして高い生活技術が導入され、ムラの形態を一変させた。中国の史書(『三国史』 東夷伝)によると 邪馬台国(やまたいこく) の存在を明記し、とくに国都や集落のことが詳しく書かれている。
 宇佐市駅館川流域や、河岸段丘には弥生前期末から中期のムラがあり、その周辺を結んで小国を想定することができる。昭和23年ころから最近に至るまで長期にわたって発掘が行われている 上田原(東上田)遺跡 では環濠または条濠をもつ竪穴式住居跡が広い範囲に存在していることがわかっている。また 台ノ原遺跡 では住居跡と共に貯蔵のための袋状の穴があり、中から炭化した米が見つかっている。コメを主体とする食糧貯蔵穴として家の周辺に数多く設けられたものと推理できる。
 畿内国家出現期を迎えようとする弥生終末の集落は 大野川 上流域に集中して発見されている。このうち昭和55〜56年発掘の竹田市 菅生(すごう) 石井入口遺跡 は弥生終末期の状況をよく現している。遺跡は 阿蘇火山 の溶岩台地の支谷にはさまれた平坦な場所をえらび既掘部7,500u(未掘部1,500u)で179基の竪穴式住居が発見されている。これらの中には一部古墳時代の竪穴が含まれ、また建て替えがあったにしても一つのムラの単位としては規模が大きい。
 竪穴から見つけ出された遺物の中に 後漢鏡 の破片(一部磨研した再生鏡)4、完形の 製(ぼうせい)鏡 1、 朝鮮系小 銅鐸(どうたく) 1がある。これらの鏡から直接でないにしても、周辺国から搬入された遺品によって弥生終末期の複雑な問題を提起する充分な資料といえる。
 海岸に近い遺跡では 安国寺遺跡 がある。遺跡は昭和24〜27年の長期にわたり、 U字濠集落 の完掘が行われた。低湿地の一部を濠で湿気を除き濠内側に数棟の 高床(たかゆか) の家を建てる。家の構造(ほぼ1棟分の建築材の出土による)がかなり複雑で 手斧(ちょうな) などの加工も見られる。
〈古墳時代のムラ〉
 古墳時代のムラは弥生時代終末から継承され、大野川上 中流域の前代からの拠点集落に多く見られる。たとえば弥生終末期の石井入口遺跡や 小園(おぞの)遺跡 などの拠点となるムラは4世紀代に 七ツ森古墳 を成立させる母体となっている。これに対して 宇佐平野 や 大分平野 などでは、前代の拠点集落は古墳時代前期までに廃絶して新たにムラの発生が見られる。これは新しい古墳時代首長によるムラの再編成によるものとみてよい。前期の集落で注目したいのは、日田市 小迫辻原(おざこつじばる)遺跡 の 居館跡 である。おそらく4世紀初頭の新首長の館とみて間違いなく、周辺の調査によって後世に継続する遺構の確認も得られている。5世紀のムラとしては竹田市の 楠野遺跡 が注目される。遺跡全体を「宗族」に、1群を「門戸」に、最少単位を「屋室」に想定できるとしている。6世紀末では宇佐市 葛原(くずわら)遺跡 のムラが注目される。広場には 竃(かまど)屋 とみられる竪穴があり、2間×2間の掘立柱から高床の倉庫などもあり新しいムラの形をみることができる。
 参考文献 鏡山 猛「環溝住居阯小論」(『史渊』第67 68 71号)
[賀川 光夫]

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