守護大名 ( しゅごだいみょう)

守護大名は学術用語

〈守護大名とその権限〉
 守護大名とは、室町幕府によって任命され、任国の支配を委任された守護を指す学術用語で、史料上にみえる歴史用語ではない。権限という面からみれば、鎌倉期には 大番(おおばん)催促 謀反人 殺害人(せちがいにん)の検断、つまり 大犯(だいぼん)三箇条(貞永元年<1232>夜討 強盗 山賊 海賊の検断権付加)に限定されていたものに、次のような権限が与えられている。すなわち、南北朝の内乱が公 武の対立から、所領拡大を目指す 国人(こくじん) 層の対立に変化し、全国的に拡大していく中で、国人層を幕府のもとに組織する必要があった。そのためにとられたのが、 刈田狼藉(かりたろうぜき)検断権、幕府の判決を執行する使節 遵行(じゅんぎょう)権、軍勢の 兵粮(ひょうろう)米を現地調達する兵粮料所給与権( 半済(はんぜい))、 闕所(けっしょ)地預置権の付加である。このほか、 一国平均役(いっこくへいきんやく)賦課が守護 段銭(たんせん)徴収権となるなど、経済的基盤も確保された。打ち続く戦乱は、国内の武士に参戦を強要することになるが、守護は闕所地を給与するなどによって私的な封建的主従関係を成立させていった。以上のように、室町時代の守護は、領域的支配と私的主従制を展開していくことになる。このような守護を鎌倉時代の守護と区別して学術的に守護大名と呼んでいるのである。この実態全てがそのまま豊後国にあてはまるわけではない。例えば、大犯三箇条に限定されたという守護の権限も、九州にあっては別に裁判権が認められているし、刈田狼藉 闕所地預置などの実例も皆無に等しい。したがって国人層の 被官(ひかん)化の実態も明確でなく、逆に守護家が国人層と妥協しなければ政権の維持が出来にくいという面さえみえる。反面、領国支配の面では 政所(まんどころ) 機構の整備や弱小国人層を奉行人に組織するなどの面もみえる。この時期に該当するのは7代 氏泰(うじやす) から15代 親繁(ちかしげ) までぐらいであろう。
〈遅れる国人衆の被官化〉
 闕所地預置による国人層の被官化の実例は皆無で、闕所地預置の実例も貞和6年(正平5、1350)に大友氏泰(が)南朝 方についた一族 詫磨(たくま)氏 の 所領(しょりょう)を闕所とし、やはり一族の 志賀氏 に預けたもの一件しか見当たらない。大友宗家と国人衆の関係は、貞治5年(正平21)将軍 足利 義詮(よしあきら) が 氏継(うじつぐ) に対し、国人衆の私合戦を禁止させ、 探題(たんだい) の下向を待つよう指示したことに端的に示されている。すなわち、南朝軍優勢の中における 北朝 一辺倒の惣領家に対する国人衆同志の路線抗争で、その結果は氏継の南朝勢への加担、氏継系家督と 親世(ちかよ) 系家督が交互に立つという法則を生み出した。つまり、国人衆を被官化するというより、国人衆の路線決定と妥協しなければならなかったのである。この関係は、幕府の追討を受ける 持直(もちなお) と、攻撃方に加わった 親綱(ちかなお) との間にも顕著にあらわれている。
〈守護領の豊後集中〉
 正慶2年(元弘3、1333)、 貞宗(さだむね) から千代松丸に譲られた所領 所職(しょしき)は、「豊後国守護職 付五職并所領等 …」とあるだけで、具体的な場所や数は判明しない。また、 足利 尊氏(たかうじ) が氏泰に与えた 新恩(しんおん)の所領所職も豊前 筑前 肥後 越後関係のものである。 氏時(うじとき) の場合の新恩の所領所職も豊後国 高田(たかた)荘 のほかは、肥前 筑前 肥後 越後 河内 摂津 筑後と広範にわたっている。貞治3年(正平19、1364)時点で氏時が 知行(ちぎょう)していた所領所職の状況は、豊後の36を筆頭に合計67となっている。それが、永徳3年(弘和3、1383)時点の親世の知行状況では、豊後の47を筆頭に合計86と、豊後国内での増加が目立ってくる。この所領所職の増加の裏には、被官化した国人衆の軍事力が存在していたことは否定できない。
〈拡大する権限〉
 応永3年(1396)、親世は 田原 別府(べっぷ) 内志賀女子分の打渡を 木付 親世(ちかよ) に命じ、6年には筑後国松門寺地頭職を 佐田 親景(ちかかげ) に 安堵(あんど)している。このように、守護による国人衆への所領所職の安堵は時代の経過と共に事例が増えていく。また、応永2年時点に将軍家 小番(こばん)衆 として名をみせる 田原 佐伯 日田 吉弘氏 等は、持直代の永享期には大友 若党(わかとう)と完全に被官化していることが判明する。15世紀に入ると守護の段銭賦課が確認できるようになる。応永14年の段銭請取状によると、反別50文の賦課がみえ、段銭奉行のひとりは政所役人であったことも判明する。つまり、親世期には幕府から段銭賦課権が与えられていること、支配機構として政所が整備されはじめていること、さらに弱小国人層を執行機関の一員に取り込んでいることが確認できる。この段銭賦課によって任国を自己の経済的基盤とすることになる。このように、鎌倉期の守護に認められなかった権限を与えられることにより、国人衆を被官として組織して軍事力を増強するとともに所領の集中化をはかり、さらに領国支配機構の整備や経済的基盤を確立していった。ただし、荘園制社会を否定できなかったという限界をもっている。
[橋本 操六]

[し]メニューに戻る