酒造 ( しゅぞう)
揚酒と猪口酒
〈造酒株と藩の統制〉
人は喜びにつけ悲しみにつけ酒を飲む。これは今も昔も変わらない。では、江戸時代の酒造り 販売はどのように行われていたのであろうか。酒の原料は米である。米は幕藩制社会を支える根幹ともいえる作物であるため酒造りや販売は幕府や藩の強い統制下におかれ、株=権利を持った者しか営業できなかった。酒造の営業権利が 造酒株 である。造酒株は幕府が各藩に一定数を割り当て、藩ではそれに従って業者を決める建前であった。各藩の城下町において株をもつ酒造業者は 臼杵藩 で12軒(天保8年、1837)、 府内藩 5軒(延享3年、1746)、 杵築藩 10軒(元禄17年、1698)、 中津藩 22軒(明和4年、1717)などとなっている。また、村方(在方 在中)にも造酒株は認められた。文化10年(1813) 熊本藩 領 高田 手永(てなが) (大分市)では24か村のうち、下徳丸村と竹中村に造酒業者がいた。幕府領に多く残されている各種の 村明細帳 をみると、多い村では2〜3軒の造酒屋がいることもあり、各地域で特有の 地酒(じざけ)が造られていたと考えられる。このように各地域で造られた酒を販売するのは、 揚酒屋(あげざけや) と 猪口場(ちょこば) である。揚酒屋は酒の小売店で、現在でいう文字どおり酒屋である。猪口場とは一杯飲み屋 居酒屋のことで、ここで売られる酒を猪口酒という。この揚酒と猪口場の営業も当然藩から株が認められなければならなかった。 府内城下町 では、延享3年に23軒もの揚酒屋があった。また、先の高田手永の村々では8か村にある。各城下町には現在の歓楽街とは言わないまでも、数多くの猪口場があったことであろう。では、本来商売禁止が原則である村方においてはどのような場所に揚酒屋 猪口場認められたのであろうか。ひとつには人の行き来が激しい街道筋がある。例えば、臼杵藩領 稙田市(わさだいち)村(大分市)は肥後 竹田と府内 鶴崎を結ぶ街道筋にある村であるため 在町 として繁栄していたが、そのきっかけとなったのは享保10年(1725)猪口場が営業を開始しためである。また、同じく臼杵藩領の利光村(大分市)では 日向街道 に面しており、また 大野川通船 が行き交う旅人の往来が激しい村であるため、庄屋は旅人用の出店が必要であると揚酒屋の経営を願い出ている。このように各地に数多くの造酒屋 揚酒屋 猪口場があったことは、それだけ酒が人々の生活と切っても切れないものであることを雄弁に物語っていよう。しかし、藩では製造 販売のみならず、農民の生活統制政策の中で飲酒自体も制限を加えるようになる。臼杵藩では宝暦年間(1751〜64)一連の風俗取締り政策を実施するが、その中で婚礼の際の酒は2献に限るとしてる。また、府内藩では 天保改革 の柱として天保13年(1842) 倹約令 を出すが、年始客への酒の振舞い、葬式 寄り合いの席での酒などが一切禁止された。そして、猪口場の営業も全面禁止となった。揺らぎつつある藩政の建て直しという名目で、庶民の楽しみが奪われたのである。さて、揚酒屋などで販売される酒は地元産ばかりでなく、他国産( 旅酒(たびざけ))もあった。特に大坂から運ばれた酒は「下り酒」と呼ばれた。府内藩では流通統制のため下り酒惣問屋を任命し、独占体制を実施している。しかし、安永3年(1774)下り酒は禁止となり、城下 俵屋 が唯一の造酒問屋となり、領内の揚酒屋への卸を独占するようになった。これは藩財政悪化の中、正貨(銀 銭)が領外へ流出することを防ぐための政策といえる。
〈麻地酒〉
豊後の有名な地酒に 日出(ひじ)藩 の 麻地酒(あさじざけ) があった。貞享4年(1686)談林派の俳諧人 人見竹洞は麻地酒を擬人化した「麻地酒叟伝」を著し、その特徴を「性甘美辛勤、人に接するに和柔、事を行うに剛毅、その直きこと麻中の蓬の如く、其の潔きこと玉泥の瓊屑の如し」と表現している。また、 米良東 (めらとうきょう) は天保2年(1831)「麻地酒翁伝」を書き、藩の直営産業で、城内の東園(二の丸)で造られていたとしている。天保年間(1830〜43)の 日出城絵図 には二の丸に「麻地倉」がみえ、ここで醸造されていたものであろう。杜氏は城下町の 万屋関家 が代々勤めているが、製法など詳しいことはわからない。
〈水車〉
酒造りには米を精米するための 水車 がかかせない。 臼杵城下 本町 の造酒屋 鑰屋(かぎや) は、寛政9年(1797) 畳屋町 布屋 とともに海添掛橋での水車営業を藩へ願い出ている。さらに、享和2年(1802)鑰屋は1基の増設を申し出た。この時の水車小屋は3間(5.4m)×5間(9m)の 瓦葺(かわらぶ)きという立派なものであった。水車建設がめずらしかったものか、前藩主の母と現藩主の妹が見物に訪れている。その後、城下周辺での水車数は増加し、嘉永年間(1848〜54)には6か所8基の水車が稼働している。それだけ精米の需要があり、造酒が盛んだったと言えよう。
[長田 弘通]
[し]メニューに戻る