荘園・公領制 ( しょうえん・こうりょうせい)
武士たちの経済基盤誕生
11世紀の後半から、13世紀初頭にかけて形成された、在地領主と貴族などによる相互補完的な土地領有制度。
〈所かわれど品かわらず〉
レジャー ブームの昨今、旅先で、所かわれど品かわらずの思いをあらたにすることが多い。同じような材料を使えば、同じような製品ができあがるのは、理の当然であり、名称が変わるだけ事態が複雑になる場合が多いのである。わたしたちは名称が違えば、なにか本質的な部分が違うはずだという錯覚に陥ってしまうのである。荘園と公領( 国衙(こくが)領 ともいう)、この名称の違いに惑わされ、その共通する本質の研究がおきざりにされたことの反省のうえに提起されているのが、荘園 公領制論である。荘園と公領は、 在地領主 (この武装した人々を武士という)が農民を支配し、農民から必要な産物を徴収するという点では両者に本質的な違いはなく、いわば荘園と公領という、二つの看板が支配者の都合で随時とりかえられ、それに応じて、農民のだした租税の行き先が違っていくにすぎないものであり、国家的事業の場合は、荘園にも負担がもとめられるなど、荘園は国家の秩序から独立しているのではないとする考え方である。
〈荘園と公領〉
公領から荘園へ看板がかわり、その領有と税の減免を国家 国衙に承認してもらう手続きを、 立券荘号(りっけんしょうごう)という。この立券荘号が、ほぼ完了し、各国が荘園と公領にわけられた時、荘園 公領制が完成したと考える。それは、全国的には13世紀中ころであるが、豊後国の場合は、 阿南(あなん)郷 が 阿南荘 に立券された寛喜2年(1230)をもってその完成と考える。一つの国が、荘園と公領にわけられても、九州では 宇佐宮 を造り替える費用などは、区別なく賦課された( 一国平均役(いっこくへいきんやく) という)ので、そのための台帳が作成された。これを一般に 大田文(おおたぶみ) というが、豊後国については、弘安8年(1285)の「 豊後国 図田帳(ずでんちょう) 」が残されており、豊後国における荘園 公領制の完成形態を知ることができる。豊後国の場合、荘園と公領の比率は77対23になり、全国比の68対32、薩摩国の33対67に比べると、荘園化が進んでいたといえよう。
〈荘園とはなにか〉
荘園 公領制という場合の荘園は、11世紀後半以降、とくに12世紀に多く成立した寄進地系荘園をいう。これは、領域型荘園ともいわれ、奈良時代の初期荘園や、摂関時代の官物を出す荘園とは無縁なもので、多くは在地領主が自分の所領を寄進した結果、成立すると考えられている。中世の所領とは、経済的利益をうみだす一定の領域の事であるが、多くは地名に郡 郷 別符(べっぷ) 院(いん) 保(ほ) 浦(うら) などの呼称をつけて呼ばれていた。たとえば、 日田荘 は日田郡の大半が荘園化したものであり、 稙田(わさだ)荘 津守(つもり)荘 などは郷の、 佐伯荘 は院の、 賀来(かく)荘 は 別名(べつみょう) の荘園化したものと考えられる。大分県内の場合、これ以外に、 緒方荘 竃門(かまど)荘 など、宇佐宮の封郷 賜田から荘園化した特異な例もあるが、その場合でも、それぞれの地域は、在地領主の所領となっていたものと考えられる。
〈所領の形成=荘園成立の前提〉
11世紀にはいると各国は、それまで公領の耕作とひきかえに納税を請け負ってきた農民(負名などと呼ばれた)の没落や耕作拒否などによって、公領が荒れはじめ財政も苦しくなりつつあった。そこで 国衙 は、 在庁官人(ざいちょうかんじん) や郡 郷司に、未墾地や荒廃公領の開墾 再開発による私領化をすすめ、その私領支配をテコに周辺部の農民支配を私領主に請け負わせる地方政治体制をつくろうとした。しかし律令体制以来の国−郡−郷という縦型の命令系統が残っていたのでは、私領主相互の対立の原因になるので、国衙に私領主が直接責任をおう体制をつくったのである。すなわち郡や郷を解体して、別名をつくり、郡 郷 別符 院 保 浦などとして、相互に対等な支配単位とし、私領主がそれぞれ 郡司 郷司 別符司 保司 院司などという公職につき徴税 行政の責任者となったのである。このような公職についている人を在地領主といい、各支配単位は、財をうみだす経済的な基盤と意識され、所領と考えられるようになった。一国は、いわば所領の集合体という様相になっていたのである。
〈所領はなぜ寄進されるか〉
阿南荘は、本来公領から納める大神宝料が欠怠するので、その代わりとして阿南郷が寄進されたものである。このように国家 国衙の意向で、公領の一支配単位が寄進され荘園となることがあったが、これは 官物(かんもつ)の納入先が、国衙から準国家機関に変わったにすぎないのである。また公職にあることによって所領支配は実現されるが、国司と対立し、公職を没収されそうになった在地領主が、公職にかわる準公職的な荘官職を手に入れるために、所領を寄進し荘園化する場合もあったのである。
[西別府 元日]
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