小学校 ( しょうがっこう)
忠実な臣民の育成機関
小学校のはじまりは、明治5年(1872)の政府による「学制」の制定にある。しかし、同年から同7年はじめにかけての本県の教育行政は文部省の「学制」ではなく、 福沢諭吉 の「大分県学校取立仕組」「大分県内小校課業表」にもとづいて推進されていた。ところが、日田 咸宜園(かんぎえん) 出身の文部大丞 長 (ちょうひかる) が督学として来県し、政府の学制実施を強制した。そこで県は同7年5月に布達を発し、福沢路線から「学制」路線への転換を宣言したのである。
さて、政府は「学制」の序文である「 被仰出書(おおせいだされしょ)」を出して、近代公教育制度の理念と政府の基本方針を明らかにした。「学制」は、全国を大 中 小学区に分け、学校は大学 中学 小学の3等とする。小学校は各種あったが、尋常小学校を下等と上等に分け、6か月進級制とした。ところで、同10年の 西南の役 に関連して破壊された小学校が県南地方や竹田町および県北地方に点在したので、県では職員を派遣して調査し、対応策を練っている(『大分県教育百年史』第1巻)。このような動きに対応して、政府は同12年9月「教育令」を公布し、教育の地方管理を企てた。これは一方では 自由民権運動 に対応し、他方では教育に対する国庫支出を軽減するための施策でもあったが、アメリカ式の自由主義的地方分権化は、就学率の低下などの不都合を生じた。そこで同13年改正教育令を公布し、学制の立て直しをはかった。これを受けて翌14年「小学校教則綱領」が定められ、小学校は初等2年 中等2年 高等2年の3段階となった。小学校の教科書についてみると、同14年に開申制度が始まり、同16年には認可制度が採用されて統制が強化され、同19年に教科書検定制度が発足している。
〈強まる国家統制〉
「明治14年の政変」以後の政府は、同20年代の初等にかけてドイツ的近代国家体制を確立してゆくが、その過程に対応して教育も国家統制を強めていった。初代文部大臣森有礼は、同19年4月「師範学校令」「中学校令」とともに「小学校令」を制定した。「帝国大学令」を加えて、わが国の学校体系の基本を定めた点で、画期的な意義を有する改革であった。小学校についてみると、これを尋常 高等の2段階とし、前半の尋常科4年を義務教育とした。また修業年限3年の簡易科の設置を認めている。教育課程に関しては「小学校ノ学科及程度」を定めたが、小学校令の公布から同24年11月までに、小学校令施行のための諸規則が公布された。これは同23年の第2次小学校令が「 教育勅語 」の起草と照応して、勅令として公布されたからでもあった。以後の教育は国民のためではなく、国家のためのものとして、天皇制官僚支配を強化する手段となった。同25年から全面的に施行された改正小学校令が、昭和16年の国民学校令の公布まで、これ以後の小学校の内部組織 授業 管理などを規定し、定型化することとなったのである。同23年「教育勅語」が発布されると、同24年6月に「小学校祝日大祭日儀式規定」を公布し、国家祝祭日の儀式を学校行事として義務づけた。また、師範学校教育の影響もあって、兵式体操を原型とする運動会 遠足 就学旅行などが慣例化した。同25年本県も「儀式順序」を定めたが、これは教育勅語と 御真影(ごしんえい)の下賜を教育上有効ならしめた。さらに、日清戦争後の産業革命の進展に応じて、同33年に小学校令の改正が行われ、義務教育制度が整備されている。同35年に起きた 教科書疑獄事件 を契機として、同36年4月より小学校教科書の国定制度を実施した。同40年3月の小学校令改正で、尋常小学校の修業年限が6年に延長されたことは、義務教育年限が2年延長されたことを意味したが、心配された支障も起こらず円滑に移行している。同42年の義務教育就学率は98%を越えた。一方、日露戦争後の社会風紀の 弛緩(しかん)が青少年にも及んだので、同41年「 戊申詔書(ぼしんしょうしょ) 」が発布され、小学校にも詔書奉体が強制されている。大正時代の本県の小学校教育は内容充実に力が注がれるようになり、研究会や講習会が多くなった。また教育行財政の整理も進められている。大正6年臨時教育会議の答申を受けて、翌7年義務教育費国庫負担制度が成立したのは画期的なことであった。第一次世界大戦後の 中等学校 への志願者増加が、小学校における入学準備教育をあおり、大きな社会問題となってきた。同8年の小学校令改正では、主として理科や地理 日本歴史の教科課程に改正を加え、高等小学校については進学者が倍増した(尋小卒の55%)ので、昭和元年(1926)に教育課程を再び改め、実務生活との関連を重視し、完成教育と考えるようになった。昭和初年の 経済恐慌 は、大正時代の各種の新教育を退潮させ、昭和4年の 教化総動員運動 以後は、小学校も忠実な臣民の育成機関としての性格を強めていく。そして、皇国民の錬成を目的とした同16年の 国民学校 に発展的に解消した。小学校が改編されて復活したのは、戦後22年公布の学校教育法に基づいている。
参考文献 文部省『学制百年史』
[小玉 洋美]
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