障害者福祉 ( しょうがいしゃふくし)

“お慈悲”から、戦後は自力更生へ

〈明治〉
 障害者等に対する福祉行政が本格化したのは、もちろん 第二次世界大戦 直後の新憲法の制定以後であるが、戦前にも、その萌芽が見られなかったわけではない。例えば、本県においては、明治5年(1872)5月22日、当時の 県令 ( 森下 景端(かげなお) 参事)による県 達(たっし)「済貧 恤(じゅつ)窮ノ諭告」がある。その説示によれば−新政府が発した御高札(五 榜(ぼう)の掲示)「 鰥寡(かんか)(やもめ)孤独、廃疾ノモノヲ 憫(あわれ)ムヘキ事」(第一札 定(さだめ))は県民も周知のことと思うが、広く県域の窮民を一時に救うのは困難、よって村や町に戸籍のある者は互いに情誼を尽くして救い会い、家族や身寄りのない「 乞食(こじき)ノ徒」や「老幼廃疾」に限り国(府県)は恤救の手をさしのべるであろう、と。このような施策は、幕藩体制下の各藩で、水旱害や火災時の 罹(り)災窮民に対する緊急措置をそのまま踏襲したものである。維新当初、農民 騒擾(そうじょう)で辛酸をなめた本県はじめ全国には、新政府に対する 憤懣(ふんまん)や 怨嗟(えんさ)の声が満ち、これをかわすとともに社会的基盤を強固にするためにも「国家的に統一した救貧対策が必要であった」(『日本近代法発達史』)。
 この県達が出された2年後の同7年(1874)12月8日、新政府により「恤救規則」(太政官達第162号)が社会福祉政策に関する国家法として登場する。この法は、我が国にあって、半世紀以上にわたり(昭和4年まで)存続した唯一のものであった。その概要を示せば―本来済貧対策は人民相互の情誼(親族相救 隣保相扶)によってなさるべきもの。政府はこの際、特別の「慈恵」をもって「極貧ノ者、独身ニヲ廃疾ニカカリ産業ヲ営ム能ハサル者」(但し、独身でなくとも家族が「七十年以上十五年以下」で「其ノ身廃疾ニカカリ窮迫ノ者」であれば、これを準用する)と「同シク独身ニテ七十年以上ノ者、重病或ハ老衰ニテ産業ヲ営ム能ハサル者」(同上の趣旨の者にも準用する)に対しては、1年間に米1石8斗を給与する。また「同シク独身ノヲ疾病ニカカリ産業ヲ営ム能ハサル者」(同上)に対しては、1日に男子は米3合、女子には米2合を、「同シク独身ニテ13年以下ノ者」(同上)には1年に米7斗をそれぞれ給与する、と定めていた。以上のように極貧で独身、かつ生業不能の老幼 廃疾 疾病者で親族や隣保の扶助が得られぬ者に限り、政府(村県)はやむを得ず救済するというのが明治政府の基本的姿勢であった。
〈昭和〉
 時代は降り、昭和に入る。大 恐慌 の同4年(1929)4月1日、この恤救規則のあとを受けて制定されたのが「救護法」(同21年廃止)である。ここでの被救護者は@65歳以上の老衰者、A13歳以下の幼者、B不具廃疾者、C妊産婦、D傷疾その他精神または身体の障害者、とされていた。その救護の種類も 生活扶助、 医療、 助産、 生業扶助などであった。大分県では、昭和前期の軍国化情勢の中で、 本山 文平(ぶんぺい) 知事 は「教化総動員運動ノ告諭」(同4年)を発し、「愛国愛郷ノ精神ヲ基調トシ(中略)大ニ隣保共助、自営独行ノ気風ヲ奮起シ」と県下農山漁村の更生運動を推進した。その後、同11年(1936)には方面委員制度を設け、地域の委員を補助機関として位置づけ、社会的困窮者を「隣保相扶ノ醇風」に則し「互助共済ノ精神」で保護 指導に当らせた。戦時中、法制度的にも母子保護法(同17年)など多くの社会保護立法を執行した。これらは、いずれも公的扶助主義に立脚するにもかかわらず、あえて「救護ノ恩」を強調し、行政関係者に「その為の社会的教化機能を期待したのであった」(豊田寛三ほか『大分県の百年』など)。
〈戦後〉
 敗戦後の新生日本は、その進むべき指標を平和と文化、並びに「福祉(国家)」に置いた。新憲法は、その第25条(2項)で「国は、すべての生活部面について、 社会福祉 、社会保障、及び 公衆衛生 の向上及び増進に努めなければならない」として、国家に義務を負わせたのである。戦後初の 民選知事 細田のあとを継ぐ 木下 郁(かおる) 県政(同30〜46年)、さらに 立木勝(たきまさる) 県政(同46〜54年)はともに福祉行政を県政の基幹に据えた。とりわけ、革新知事木下郁(宇佐郡 安心院(あじむ)町出身、1894−1980)は先駆的業績を挙げ、全国の注視を浴びる。 別府 整肢園(せいしえん) の開園(同32年)、 大分県身体障害者体育大会 (同36年)につづき「 太陽の家 」(社会福祉法人、別府市亀川)が同40年に開所した。身障者授産施設 重度身障者授産施設 福祉工場の3施設から成る当該施設は、医師 中村裕 (別府市、同59年急逝)が発起人でわずか7人の 竹細工 下請け事業から出発、現在総勢725人、うち身障者は520人にまで育った。同56年「 国際障害者年 」の創設は、国の障害者対策10年計画と相まって、障害者福祉に国民の理解と関心を深めた。この年を記念して発足をみた「 国際車 椅子(いす)マラソン大会 」は毎年秋、国際色豊かに実行されている。大分県での障害者福祉行政は、全国でも有数の先進県として大きな注目を集め、その業績が高く認められている。
[大野 保治]

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