商品作物 ( しょうひんさくもつ)
江戸時代の一村一品
〈多彩な畑作物〉
江戸時代の農業の中心は言うまでもなく稲作である。しかし、米は 年貢 としてほとんどが収奪され、農民手元には残らず、稲作だけでは生活は立ち行かなかった。また、租税を銀納することもあり、現金を手に入れる必要があった。これらの理由から、農民は少しでもゆとりのある生活をめざしたゆまぬ努力を続けた。その一つが多くの現金収入が得られる商品作物の栽培である。まず、畑作物について見てみよう。各地の「 村明細帳 」によれば、実に多用な作物が作付けされているが、その代表は大 小麦、大 小豆、 粟(あわ) 稗(ひえ) そばなどの雑穀である。野菜類も多種多様で、寛延2年(1749) 延岡藩 領の大分郡 龍原(たつはる)村(庄内町)では大根、ちしゃ、きゅうり、なすび、いんげん豆、にがうりなどなじみ深い作物が栽培されている。野菜で大坂まで名の知られたものに「 高田 牛旁(ごぼう) 」がある。 熊本藩 高田手永 のうち「洲ヶ在八ヵ村」とよばれる 大野川 と 乙津川 にはさまれた 高田 輪中(わじゅう) の村々では、 洪水 に悩まされながらも、その洪水が運んでくる 肥沃(ひよく)な土壌が特有の作物を生み出した。それが牛旁 大根であり、土質によく適し、太くやわらかで味もよいため、この地の名産となり、近隣の町や遠く大坂まで売りさばかれた。「農業のミにてハ渡世難渋し」という農民にとって牛旁 大根は「銀納のため」欠くことのできない商品作物であった(『 高田風土記 』)。
〈綿と麻〉
江戸時代農民の衣服はほとんどが 木綿 麻布 に限られていた。農民は綿 麻を自家用として栽培するほか、商品としても作付していた。近世初頭の文禄検地帳のうち大分郡曲村、片島村、高城 中村(大分市)、速見郡中津村(杵築市)、下河内村(山香町)分には畑作物の記載があり、木綿 麻も見られる。全畑面積の内現作分への木綿の作付率をとると、曲村39.9%、片島村27.6%、高城 中村21.1%、中津村3.6%、下河内村1.5%と、大分郡3か村と速見郡2か村では対照的である。これは速見郡2か村は全くの自家用分の栽培であり、大分郡は中世より栄えていた府内の後背地として早くから商品作物としての木綿栽培が広まっていたといえる。さて、古くから布といえば麻布をさすほど主要な衣料であった。繊維のまま「 から 苧(お) 」として出荷されることもあった。めずらしいのは先の高田手永での 縁布(ふちぬの)織り である。高田輪中では「能く延びて土地にあふ」ことから麻が栽培され、「洲ヶ在八ヵ村」と「山奥在九ヶ村」の村々では婦人たちが農閑余業として畳の縁にあてる布を織り、「 豊後縁布 」として有名になっていた(『高田風土記』)。衣料に関係深い作物に 藍(あい)がある。農民たちは自家で織りあげた布木綿を村の紺屋に持ち込み染めていた。原料となる藍玉の全国的な主産地は阿波国(徳島県)で、天明3年(1738)大分郡延岡藩領の25人の紺屋が徳島藩の商人から藍玉を購入している。 杵築藩 では文政13年(1830)ころから 国東半島 で試作されており、天保15年(1844)には領内産の藍玉を城下の紺屋に1俵づつ販売できるまで生産は増加している。また、 臼杵藩 でも幕末殖産事業の一つとして栽培を奨励している。
〈 楮(こうぞ) 紙 漉(す)きと 櫨(はぜ)〉
商品作物が盛んに栽培された理由のひとつに藩による国産奨励政策があげられる。18世紀から藩財政悪化に悩まされた諸藩では、特定の作物について生産から販売にいたるまで藩の統制下におき、利益独占をねらったのである。このような作物の代表に 紙 と 櫨 がある。 佐伯藩 では「 因尾(いんび)紙 」が有名で、早くも17世紀後半から因尾村(本匠村)を中心に紙漉きが行われていた。当初から藩主導のもと、中国地方から紙漉き職人を雇い、技術を導入している。その生産量は文政期(1818〜29)には年貢の半分以上を紙漉き代銀でまかなえるほどになっている。臼杵藩では安永2年(1773)各組ごと高1石につき3本づつの 楮 苗木植え付けが命じられ、栽培が本格化した。同時に他領産の楮を使った紙漉きを禁止、製品はすべて藩の買い上げとなり、専売制が開始されている。また、杵築藩の 鴨川和紙 も有名で幕末には幕府御用にも用いられている。櫨は 蝋(ろう) の原料となり、各藩ではこれも 専売品 としている。 府内藩 の場合、弘化2年(1845)に育成の手引書を村々に下げ渡し、植え付け状況の調査を実施している。また、杵築藩では文政12年(1829)藩主の命により植え付けが始まり安政6年(1859)国東郡 諸田(もろた)村( 安岐(あき)町)では393本が植樹されていた。幕末の領内生産量は50万斤といわれる。日田郡では天明6年(1786)に高取村102斤、栗林村71斤の櫨実が収穫されており、日田出身の農学者 大蔵 永常(ながつね) の『 広益国産考 』によると日田郡の全生産高は金4,500両で「所産物代金書上帳」では明治元年(1868)金13,500両となっている。
[長田 弘通]
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