庄屋 ( しょうや)

「むら」の中間管理職

 江戸時代における村役人の長。「 肝煎(きもいり) 」 「 名主(なぬし)」などとも言う。地方行政官という側面をもつとともに、村落共同体の首長という側面も保持していた。一般的に、 年貢 納入 宗門(しゅうもん)改め 、その他農村全体についての管理 監督を行う役目を有していた。
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
 大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、 磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。 岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。また、 杵築藩 では各 手永(てなが) ごとに 大庄屋 を配置していたが、この大庄屋は士分に準ずる取り扱いをうけていた。このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである。
〈支配機構の末端としての庄屋〉
 諸藩においては、藩政が次第に軌道に乗り安定してくると、旧在地領主層との妥協は必要なくなってきた。そこで、庄屋層に認めていた特権を削減し画一的なものにしていった。岡藩の場合、明暦3年(1657)に庄屋らの村役人の年貢の免除高 給米などを定めている。そして、宝永3年(1706)には千石庄屋の名称を大庄屋と改め、地方支配機構を整備している。また、杵築藩の場合は、17世紀後半に様々な理由による大庄屋の処分 交代があいつぎ、農民身分としての取り扱いとなっている。このようにして、庄屋層の権利を削減し官僚化していき、支配機構の末端に位置付けていったのである。
〈農民による庄屋の特権削減要求〉
 農村内においても庄屋の特権を削減しようとする動きがあった。元禄4年(1691)、幕府領藤山村(日田市)の農民が庄屋罷免要求を 日田代官所 に提出するという「 藤山村騒動 」が 勃発(ぼっぱつ)した。中世以来保持してきた権限を固守しようとする庄屋と、その権限を突き崩そうとする農民との対立といえるこの騒動は、結局「和談」となり、農民に有利な決定となったのである(日田市「 財津家文書 」)。また、府内藩では享保11年(1726)の「 宗寿寺村騒動 」において庄屋罷免を要求したり、文政4年(1821)の「 さんない騒動 」において庄屋層のさんない廃止を要求したりしている。このように、各地で農民の成長にともなう村内の平等化を求める動きが起きているのである。
〈変質する村役人〉
 時代の推移とともに、農村は変容していった。相次ぐ 凶作 や 貨幣経済 の浸透などにより、没落した農民が数多くいた。庄屋のなかにも没落し交代した者もかなりいた。一方、領主が頼らざるをえないほどの経済力をもった村役人もうまれていた。幕府 諸藩は体制維持のため、有力な村役人に一定の権限を委譲したり、士分に取り立てたりしていった。こうして近世後期には、豪農 大 地主 として発展した村役人も出現したのである。
〈村役人の種類と職務〉
 さて、庄屋をはじめとする村役人は、領主 地域 時期により名称 職務などが異なっていた。 幕府領 においては、一般的に村方三役として庄屋 組頭 百姓代がおかれていた。日田代官所管轄下においては、17世紀末から18世紀初めにかけて、庄屋−組頭−百姓代という村役人の組織が確立している。組頭は庄屋を補佐する行政的な村役人であり、百姓代は農民の代表者としての村役人である。また、岡藩の村役人を、嘉永4年(1851)の長野組(直入町)「 宗門 改帳(あらためちょう) 」(直入町「 戸伏家文書 」)からみると、大庄屋 小庄屋 肝煎 村横目 宗旨横目 蔵方 符付 組頭 山廻などの種類がある。大庄屋は組に、小庄屋は村に置かれ、大庄屋が膝元の村に関して小庄屋を兼ねることは通例であった。肝煎は、岡藩の場合は庄屋の小使で、村内諸事の世話役である。村横目は、村内の出来事に善悪の判断をする役目の者である。宗旨横目は 踏絵 の監視などを行い、蔵方は年貢関係の事務を担当し、符付は蔵方の助役である。組頭は、入送籍の申告などを行ったりする。山廻は山全体の管理をし、植え付け 枯木処分などを行う者である。他藩においても、名称などは異なるが、このように多種多様な村役人を配置して支配力の浸透を図っていたのである。
[佐藤 晃洋]

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