生類憐み令 ( しょうるいあわれみれい)

幕法を無視した杵築藩

 5代将軍 綱吉(つなよし)が貞享2年(1685)に鳥銃濫発禁止令(2月)を犬猫を繋ぐことの禁止令(7月)の2法を発したのに始まり、宝永6年(1709)に綱吉が没するまでの24年間に頻発された鳥魚貝等の憐み令、犬猫憐み令、捨子禁止令、馬匹憐み令、猪鹿狼憐み令、鉄砲令、生類憐み褒賞 処罰令等々を総称して「生類憐み令」とよび、人々は綱吉を「 犬公方(いぬくぼう)」と呼んだ。
〈将軍が戌年生まれだったため、犬を大事にした〉
 天和3年(1683)、嗣子徳松が5才で夭折したため、求児の 祈祷(きとう)を盛んに行ったが、護国寺の亮賢が「人に子がないのは、前世における殺生の報いである。子を欲しいと思うなら殺生を慎み、生類をあわれまねばならぬ」と説法したのが、綱吉の生類憐み令発布のきっかけとなったという。説法をした僧を隆光とする説があるが、隆光が知足院の住職になる1年前の貞享2年2月には、上述のようにすでに生類憐み令が発布されており、隆光が亮賢の推薦によって湯島の知足院にはいったのは貞享3年であるので、生類憐みを将軍綱吉とその生母桂昌院に説いたのは亮賢とする方が自然であろう(桑田忠親『徳川綱吉と元禄時代』)。亮賢が隠退後、隆光が綱吉と生母桂昌院の帰衣を一身に集めているので、彼も生類憐み令の推進役を務めた一人には間違いない。
〈生類憐み令と諸藩の対応〉
 幕府が発した法令は一般的には全国の津々浦々にまで浸透していたと考えられるが、諸藩はどのように対応したのだろうか。その対応の仕方をみることにしよう。 府内藩 は貞享4年(1687)12月に次のような高礼で捨馬禁止を領内に通達している。読み下し文で紹介しょう。「捨馬の儀につき、 段々(だんだん)、仰せ出され候ところ、頃日も捨馬仕り候者これ有り候、きっと 御仕置(おしおき)を仰せつけられ候えども、まずこの度も流罪を仰せつけられ候、 向後(こうご)、捨馬仕候ものこれ有らば、重科に行わなべきもの也、卯十二月日」。これを見ると府内藩で捨馬をした者が流罪となったように考えられるが、実は同一文言の生類憐み令が各地の藩の法令集に収録されているのを見ることができる。このことは、諸藩が幕府法を忠実に守り、幕府の法令をそのまま藩内に布達していたことを物語っている。このように忠実な藩があった反面、幕法を無視した藩もあった。 杵築藩 の「 町役所日記 」の宝永5年(1708) 閏(うるう)正月24日には次のような意味の記述がみられる(太田利男『杵築藩町人の生活』)。「若松屋善七は辻の堂参詣の帰途、犬に襲われて大井手溝に落ちた。そこではい上がろうと岸に手をかけたところその犬が手に 咬(か)みついた。善七は無我夢中で片手で脇差を抜いて犬を斬った。その後善七は十王堂まで帰ったが犬に咬まれた手が痛んで歩けなくなり、医者を呼び、夜になってようやく自宅に帰りついた。翌日善七は口上書を奉行所に提出したが、奉行所では26日になって、『一同知らぬこと』として、善七には何の 咎(とが)めもなかった」。また、同藩の「諸事覚書帳」には元禄15年(1702)から宝永5年(1708)までの間の町役所の記録が残されているが、生類憐み令下の出来事とは思えないような記述がみられるので、その一部を読み下し文で紹介してみよう。「宝永4年(1707)11月8日、野辺船に新町いぢわる犬3疋、中町わる犬1疋、 〆(しめて)4疋乗せ遺し候、この後、出船次第、御用所に御断り申し上ぐるに及ばず、2疋 3疋宛乗せ遺し申す様にと仰せ付け候」「同年11月11日、塩屋太郎兵衛船に新町犬4疋、中町犬2疋乗せ申し候」。犬を乗せた船の行き先が記されておらず、また「御用所に御断り申しあぐるに及ばず」犬を2〜3疋あて船に乗せてよろしいという役所の命令が注目される。時代はやや下る。岡山藩では正徳元年(1711)以降、「犬を島に捨てるべき旨」の通達をしばしば発しているが、杵築の沖合にはしかるべき島影が見当たらないので、あるいは海中に捨てたことも考えられる。上述の若松屋善七の一件といい、犬を野辺船に乗せたことといい、杵築藩では表向きは生類憐み令遵守の姿勢を示しながら、内面では必ずしも同法に従っていなかったことを、一連の役所日記が物語っている。このような幕法違反はひとり杵築藩だけでなく、徳川御三家の一つである尾張藩では、生類憐み令が発布された後も 雁(がん)や 鴨(かも) 雉子(きじ)等の鳥類の捕獲を認め、 運上(うんじょう)を命じていたことも、幕法違反行為の一例として注目されよう(塚本学『生類をめぐる政治』)。このような幕法違反行為を行った藩に対して、幕法絶対遵重の例として府内藩の田浦村清六事件を紹介しよう。元禄7年(1694)2月、百姓清六が手負猪に襲われたため、無中で鎌を振りまわしているうちに猪を殺してしまった。この報告を受けた府内藩では大あわてで事の 顛末(てんまつ)を幕府の指示通りに藩主名で江戸に報告しており、生類憐み令への対応ぶりでは上述の杵築藩と好対象を示している(佐藤満洋「幕法と藩法の研究」)。
[佐藤 満洋]

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