殖産興業 ( しょくさんこうぎょう)
明治前期のムラおこし
明治前期に、政府によって展開された産業保護育成政策。産業機械 技術を導入し、軍事 鉄道 造船 鉱山等の官営工場や、紡績 製糸などの模範工場の経営から、伝統的な在来産業の育成まで力が注がれた。内務省勧業寮(のちに勧農寮)にはじまるこの政策は、明治14年(1881)新設された農商務省に引き継がれ、日本の産業の発展に大きな影響を与えた。
〈租税課勧業掛の発足〉
明治5年、発足したばかりの大分県は、租税課に勧業掛を置いた。大分県での殖産興業政策は、この勧業掛を中心に展開する。5年7月、勧業掛となった 小野 惟一郎(いいいちろう) (1848−1917)は、鶴崎(大分市)にあった旧熊本藩 養蚕試験場 の主任であった。 廃藩置県 で大分県が、事業を引き継いだのである。以後30年、小野は大分県の 製糸 紡績業 の発展に尽力する。6年春、県内から生徒を募集し、桑の栽培や養蚕技術の伝習をはじめる一方、鶴崎町の 湯地惟忠(ゆじこれただ) と妻カヨ、 添島(そえじま)シン を熊本県に派遣し製糸法を学ばせ、6年秋には旧 府内藩 勘定場 で製糸の試験操業をはじめている。7年、大分市の 勧業試験場 内に養蚕試験場を移し、生徒を募集、養蚕から製糸までの技術を教えた。8年には、第1勧業場が大分町に設けられ、養蚕 製糸 牧畜 製茶 製糖 製油 などの事業が始められた。翌9年には、管内の物産を陳列する第二勧業場が大分町に開設された。租税課勧業掛も5年11月には勧業専務、8年11月には第二課興業掛、11年11月には勧業課と改組、強化されている。
〈養蚕 製糸〉
12年、添島シン、小野ウメ、川野ツネ、小山田エンをつれて上京した小野惟一郎は、政府の勧業寮試験場で、ヨーロッパ式選繭法、製糸法、生糸検査法などを学び、群馬 福島の養蚕の先進地を視察、翌13年にも福島県を訪れ、 士族授産 法などを学んでいる。大分県の養蚕技術も向上し、12年9月に横浜で開かれた繭 糸 茶共進会で、鶴崎の湯地惟忠、玖珠郡帆足村(玖珠町)の 日野清実 が出品した繭が2等に入賞した。 西南戦争 後、 士族授産 政策をすすめた政府は、14年に旧各藩 士族 に養蚕 製糸を中心に起業資金の貸し付けを行った。県内では 末広会社 (中津) 開産会社 (竹田) 四山(しせん)社 (竹田) 純洽(じゅんこう)社 (佐伯) 臼杵製糸場 興業社 (鶴崎) 養蚕杵築組 日出(ひじ)養蚕会社 森養蚕組 共立社 (犬飼) 共同社 (大分)などが貸し付けを受けている。13年3月、小野によって結成された 蚕業原社 は、県内の養蚕 製糸の組合を結集し業界の発展をめざすものであった。15年から18年にかけて官営模範工場の富岡製糸場(群馬県)に、蚕業原社参加の組合から女工50名男工1名を派遣して技術の習得にあたらせている。19年には、小野 湯地 笹山駒二郎(ささやまこまじろう) らによって大分郡 荏隈(えのくま)村(大分市)に県費によって50 釜(かま)の模範製糸場を建設、株式会社 大分製糸場 に無償で貸し付けた。大分県における最初の本格的機械製糸の工場である。
〈『興業意見』のみた大分県〉
17年12月、政府は『興業意見』を公表した。この書は大蔵省大書記官であった 前田 正名(まさな) (1850−1921)が中心となり、全国の調査をもとに政府の殖産興業政策の実行方針を定めたものである。大分県について『興業意見』は、「勧業上ノ要務中最モ急ヲ要スルモノハ、養蚕製糸、製茶、製糖、 製 蝋(ろう) 、 青莚(せいえん) 、疏水、開墾等トス。ナカンズク該県下今日ノ衰退ヲ 挽回(ばんかい)シ、其困難ヲ救済スルハ、養蚕製糸、製茶、製蝋、青莚ノ業ヲ盛大ニスルニアリトス」と、その方針を示している。大分県ではこれを受けて、12年以後、年3 4回発行していた『 大分県勧業報告 』のなかで、農作物、農業機器、肥料、農業技術から養蚕、製糸技術、農産加工など勧業指導に力を入れている。『勧業報告』は、24年に私立勧業会の発足によって廃刊となるまで、付録 号外を含めて42回発行されている。『興業意見』が第一の課題とした養蚕は、各地に製糸工場が操業をはじめるとともに盛んになった。県内の桑畑も、16年の208町歩から20年には694町歩へと急速に増加する。士族授産で始められた 製糸工場 は、「士族の商法」といわれた経営のまずさからか倒産し、経営者が交代、27年の『 大分県統計書 』に記載された製糸工場のうち、末広会社 四山社の2社のみとなった。かわって 豊陽製糸 、 豊中(とよなか)製糸 など規模の大きな製糸会社がうまれてくる。東国東 速見 大分郡などで旧藩時代から栽培が盛んであった 七島藺(しっとうい) を原料とする青莚は、花莚の開発もあって生産が増加、26年には 青花莚業組合 が結成された。明治維新後、パラピン(パラフィン)や中国蝋の輸入で不振となっていた木蝋も、17年に白ロウ( 晒(さらし)ロウ)の開発や薬品、化粧品などへの使用によって盛んになった。しかし、日田、南海部、大野郡を主産地とした茶、西国東郡の 甘蔗(かんしょ) (砂糖きび)は、不振のままで終った。
[佐藤 節]
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