職人 ( しょくにん)
技と習俗
現在、職人とは伝統工芸や手工業の技能者の総称と考えられている。このような手工業的技能者の成立が古代までさかのぼることは明白であるが、現代的「職人」が手工業的技能者を示すようになるのは、江戸時代になってからである。例えば、室町時代末期に成立した『七十一番職人 歌合(うたあわせ)』には、和歌とともに142業種の職人が描かれ、 番匠(ばんじょう)(現在の大工)から 心太(ところてん)売り、たち君や辻君などの遊女、かんなぎ(巫女)などの宗教者まで紹介され、当時の「職人」の 範疇(はんちゅう)がかなり広かったことがわかる。中世では、職人とは技能を持つあらゆる人を指す言葉であった。ところが、江戸時代になると、士農工商という身分制度が確立し、職人は「工」の身分に限られ、遊女や巫女などは体制外の身分として差別されるようになる。
〈時代と職人〉
古代 中世において、有力社寺は職人たちを保護し、建造物の建造営繕や道具類の制作修繕等にあたらせていた。県下で中世の職人を考えた時、 宇佐神宮 の存在は大きい。神宮の祠官であった 小山田氏 は大大工職(造営修繕の指導監督者)を代々受け継ぎ、彼らが支配する職人集団の中に、 鍛冶(かじ) 土器長 寺家大工 社家大工 杣(そま)大工 檜皮大工 漆工 絵師 等が含まれていた。しかし、武士階層が 勃興(ぼっこう)するに従い、有力社寺は勢力をそがれ、職人たちは独立して、市や町などで活躍するようになる。
全国第6位の刀匠の数を誇る 豊後刀 の鍛冶、それに 駄ノ原(だのはる) と 高田 の 鋳物師(いもじ) たちの活躍は、 刀剣 や 梵鐘(ぼんしょう)の銘文によって知ることができる。
江戸初期、藩の御用を受ける職人たちは城下に集められ、職種ごとに集団で住まわされた。府内城下(現大分市)の町筋名に、 檜物町 革屋町 鍛冶屋町 大工町 塗師町 等が見られるのは、その一例である。ところが、18世紀になると、 府内城下 の鍛冶屋の数が半減する。経済力をつけてきた農村部に鍛治屋が次々にできて、城下の鍛治屋の仕事が減ったからである。このような職人の農村部への浸透、あるいは農閑稼ぎの副業としての農民の職人化は、江戸時代後半の全般的な現象といえる。
明治期になると、職人村とも呼べる集団が県下各地に成立する。大分市三佐 同海原 臼杵市 佐志生(さしゅう)等の 大工 、豊後高田市 田染(たしぶ) 日出町豊岡等の 石工(いしく) 、宇佐市 蜷木(になぎ)等の 庭師 、県南海岸部の 豊後山師 ( 炭焼き )、津久見 千怒(ちぬ)等の なば山師 ( 椎茸(しいたけ) 作り)、三重町内山 大分市竹中等の 紙漉(かみす)き 、三光村佐知等の竹細工、佐賀関町神崎 大分市坂ノ市 中津市 野依(のより)等の 瓦焼き などである。
明治期になると、人と技術の交流が盛んになる。朝地町綿田の瓦焼きは愛知県出身者が始めたし、県南の紙漉きには高知県の新技術が加わった。江戸末期に 周防(すおう)から入った 下流(しもりゅう)式製塩法は 讃岐(さぬき)流にとってかわれ、下毛郡の屋根 茸(ふ)きには広島県から広島茸きが伝わってきた。
地方の 殖産興業 を目的に、 別府工業徒弟学校 (明治35年)と 日田郡立工芸学校 (明治40年)が創立された。大工等の一般的な技術とともに、別府では 竹工芸 、日田では 木工芸 が学ばれ、現在の特産地としての礎を築いた。
〈職人の文化〉
職人は、徒弟制度 信仰 禁忌 符牒等の習俗、工具 工程 名称等の技術、製品、歴史などに「職人文化」と呼べる独特な世界を持っていた。
徒弟制度とは伝統的な技術伝承法で、基礎技術の習得のため、年季を決めて親方につくことをいう。住み込みの内弟子と通いの外弟子とがあった。徒弟期間は職種によって違うが、2〜5年であった。臼杵市の大工の場合、徒弟期間は3年で、「年明け」には親方が道具類をくれた。4年目は御礼奉公で、8合(8割)の給金がもらえ、5年目には一人前の職人として扱われたという。家事手伝いや仕事の下働きから始めて、次第に高度な技術を覚えていった。教授法は粗放で、師匠や兄弟子たちの仕事振りを「盗み覚え」や「盗み取り」するのが基本であった。徒弟制度は封建的だが、職人集団の結束を固めた。例えば、県北を中心に、石屋や庭師などの弟子たちが師匠の墓や記念碑を建てる風習があった。この 門弟墓(もんていばか)の建立は幕末から始まり、明治 大正期に盛んに行われた。
年始年末には道具類に鏡 餅(もち)を供えて「道具の年取り」をして感謝した。そして、正月2日 4日 11日のいずれかの日に「仕事始め」といって儀礼的な労働を行い、1年間の仕事の安全と成功を祈った。その時の作業として、大分市坂ノ市の 鋸(のこ)鍛冶は「 鉾(ほこ)」、野鍛冶は「鉾 鎌 鍵」のミニチュアを作って、職場の柱に打ち付けた。
聖徳太子は寺院建立の祖と考えられており、建築に携わる職人たちによって 太子講 が結成されて 祀(まつ)られてきた。主に大工が職能神として祀っていたが、次第に 左官 石工等が職種ごと、あるいは大工 左官 木挽き 石工が合同して講を結成するようになった。県内では 浄土真宗 寺院が 講 の結成に手助けすることもあった。職人たちの結束維持とともに、賃金や製品価格の取り決めをしていた。
[段上 達雄]
[し]メニューに戻る