七島莚 ( しっとうむしろ)

全国市場独占の産物

〈豊後の国名を冠した商品〉
 七島莚はカヤツリ草科の宿根草で、元来は熱帯 亜熱帯の産物である。その茎を裂いて畳 表(おもて)に加工するのであるが、 藺草(いぐさ)の畳表に比べて肌触りは荒く丈夫であり、庶民の畳表として重用されていた。5月植え付け、8月収穫という成長の速さはあるが、多肥多労働を要し、1戸当たりの栽培面積は限られていた。近世において琉球莚(表) 青莚 (表)なとども称されたが、「畿内関東にては、此の莚を豊後の青莚とも表とも云」( 大蔵 永常(ながつね) 「 広益国産考 」)というように 豊後表 (莚)と称され、豊後の国名が商品名に付けられていた。正徳4年(1714)では148万5,460枚(代銀1,729貫余)、元文元年(1736)では出荷国は豊後一国のみで122万257枚(代銀1,054貫)という大坂入津量を示している。近世後期にはさらに生産が拡大され、明治11年(1878)には県下の産額は238,906束(1束は10枚、249,742円)明治21年には、425,742束(423,432円)と増えており、文字通り近世豊後を代表する商品作物であった。
〈伝来ルートと産地〉
 七島莚の生産地は 国東半島 東部から 別府湾 沿岸地域であった。豊後への伝来については、二つのルートが伝えられているが、いずれも1660年代のものである。一つは、 日出(ひじ)藩 の 鶴成(つるなり)金山 (山香町)に来ていた鉱夫として集まった薩摩 日向出身者が敷いていた莚をみた金山奉行 長谷川久頓 が、その導入を藩主に献策し、万治3年(1660)久頓の子伝兵衛らが薩摩に行き、1年がかりで製織法などを学び、苗と織機を持ち帰り、当時の藩主 木下 俊長(としなが) の奨励により領内に作付けが行われた。それは、さらに杵築領にもたらにされた。杵築領内でも急速に植えられ、延宝6年(1678)には、莚買方商人が指定されており、天和2年(1682)には同藩域で59町(59ha)の「七島田」があり、2万3,000束程度(1畝につき4束)の生産があった。時の景気の好不況に左右されやすい商品のため産額にも上下はあるが、享和2年(1802)には91,783束を出荷している。19世紀に入ると急速に生産を伸ばし、文化5年(1808)ごろには12万束、文政年間(1818〜29)19万束、天保年間(1830〜43)17〜20万束、弘化 嘉永年間(1844〜53)には21万束、安政年間(1854〜59)では25.6万束になっている(川島孝「近世後期大坂における畳表流通」『歴史研究』22号)。このように 杵築藩 領は、豊後、否全国最大の七島莚産地であった。領内の村々では、最高時で村内の田方面積の10%程度に植え付けられ、主穀生産に影響を与えるとの理由で、嘉永4年(1851)には「三歩(30%の減反」が命じられている。
〈府内へのルート〉
 今一つのルートは 府内城下町 の商人(計屋) 橋本五郎左衛門 の招来によるものである。商用で赴いた薩摩で 堅牢(けんろう)な莚をみた五郎左衛門は、産地の琉球へ向かおうとするが、船が難破し、漂着した島(「七島」、トカラ諸島)で発見した藺草の苗を竹筒に入れ、持ち帰った。これが寛文3年(1663)のことだという。しかし、その苗は枯れたため、彼は再び島に向かい、栽培法を会得し帰国した。試験栽培をへて、領内の村々に広まった。府内城下町には延宝ころには莚問屋として橋本屋など4軒の「 粗物(あらもの)仲間」が結成されており、18世紀にはいると七島莚を取り扱う「計(斗)屋」が35軒ほどもあり、「大坂七島惣仲間問屋」と取り引きをしている。府内領内での生産量は、天保13年(1842)の莚会所取り扱い量が3万2,994束であり、幕末まで3〜5万束台を推移しており、全国第2位の産地であった。
〈七島莚と市場〉
 武蔵町の 住吉神社 にある 石灯篭(いしどうろう) は、明和3年(1766)に大坂七島莚問屋中と当所(武蔵古市)七島莚仲買人とが奉納したものである。七島莚が地域経済に果たした意味の大きさを 窺(うかが)う貴重な資料である。『大坂商業史資料』によれば、大坂の七島青莚問屋は安永9年(1780)、時の幕閣の中心人物であった田沼 意次(おきつぐ)の政策に基づき、 株仲間 が結成され、「官許ヲ得、 冥加(みょうが)銀年々惣仲間ヨリ二十貫目ヲ上納」している。そして、「七島ハ送荷ニシテ荷主ヨリ陸続之ヲ送致シ、又備後表ハ之ニ反シ皆問屋ノ注文ニ係ル」というように、大坂問屋の力が強かった(荷受け方式)ことが指摘されている。そのため、「売り 捌(さば)き方、(大坂)問屋共を十分此方へ引き付け」ることが最大の課題であった。(「町役所日記」)。さらに、大坂に回送された七島莚はそのほとんど(15.6万束)が江戸に送られていたという。にもかかわらず、産地の問屋 仲買は大坂問屋の支配下におかれていた。産地から消費地である江戸直送り体制を確立することが必要であった。
〈青島神社と青莚神社〉
 明治14年、藺業関係者は五郎左衛門のために「 青島神社 」を建て、現在は大分市三芳に 祀(まつ)られている。さらに、杵築市には昭和11年(1937) 松平 英親(ひでちか) 重休(しげやす) 木下俊長 橋本五郎左衛門 を祭神とする 青莚神社 が創建された。
 参考文献 豊田寛三「幕末期における七島莚の流通について」(『内海地域社会の史的研究』)
[豊田 寛三]

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