伊勢参宮 ( いせさんぐう)
参宮日記と伊勢講
伊勢神宮はもともと皇室の祖先神として、一般の人の奉幣は許されていなかった。しかし時代が下がるにしたがい、一般の人も 参詣(さんけい)するようになる。神宮の祠官も 御師(おんし)(神宮と崇拝者の間にたち、神宮の信仰を 伝播(でんぱ)したり参詣者の案内や宿泊の世話をする者)として大麻( 幣(ぬさ))を配布するなど、積極的に全国各地の信者との結び付きを強めている。その結果中世末には全国から伊勢参宮に出かけるようになる。豊後からの参詣者も多く、天正16年(1588)から同19年までの記録である「 天正十六年参宮帳 」(『 大分県史料 』25)には、約690人の名が確認できる。彼等の参宮の目的が「武運長久」「子孫 繁昌(はんじょう)」などであることからも分かるように、大半は武家層や町衆で、一般庶民層はごく少数であった。また数人あるいは10人前後の集団で参詣しており、すでに 伊勢講 的信仰集団が結成されていたことをうかがわせる。近世になると伊勢参宮は一般庶民層もに広まっていき、お 蔭(かげ)参りや抜け参りなどを伴いながら、毎年多くの人々が伊勢参宮に出かけている。そして伊勢参宮は人々にとって「一生に一度と申す程の宿願」( 日出(ひじ)藩 法令)となるのである。
〈参宮日記〉
当時の伊勢参宮の様子を知る史料として、参詣者が残した日記がある。出発から帰着まで毎日の行程 宿 名所旧跡 金銭の支出、さらには食事の状況などまで克明に記している。だいたい豊後から50日前後で往復しているが、江戸時代の思想家としても有名な 三浦 梅園(ばいえん) は、総行程海陸約400里(約1,600q)を42日間で往復している(「 東遊草 」)。陸路では短い日で5里(20q)長い日には10里(40q)を越す距離を歩いている。宿の出立も早く、6〜7月に参宮した人の日記をみると午前4時ごろには宿を立っている。一般には瀬戸内海を船で行き、 赤穂(あこう)あたりで上陸、名所旧跡を見ながら大坂に着く例が多い。大坂からは奈良を通り伊勢に向かうが、高野山に登ってから行くこともあった。伊勢では御師 福島 御塩焼大夫(みさきだいう) の所に泊り、外宮 内宮等の案内をしてもらう。福島御塩焼大夫は豊後に多くの 檀那(だんな)を持ち、豊後からの参詣者はここに泊まるのである。梅園らの日記を見ると、当時の伊勢神宮は参詣者に群がる物 貰(もら)いが多く、みすぼらしい姿の神官が大声で由緒を説明するなど、ただうるさく落ち着いて参拝できないとある。御師宅の食事は大変な 御馳走(ごちそう)であったらしく、献立をくわしく記した日記もある。伊勢から草津 大津を経て京都に入り市内見物をする。伏見からは川舟で大坂に出て、再び船で帰るというのがだいたいの行程であった。
〈伊勢講〉
50日前後の日数と経費がかかるとなれば、誰でも簡単に参詣できるというわけにはいかない。そこで伊勢講が組織される。何人か集まって金を出しあい、初寄りなどでくじを引き代表2〜3人を決める。代表者が代参するという形である。文政12年(1829)の 城後(じょうご)村 (直入町)の場合60人で組織され、くじで3人を選ぶというものであった。無事参宮を終えて帰ってくると「 サカムカエ 」をする。酒迎え 坂迎えなどとも書くが、本来は村境まで出迎える境迎えである。講員がその場や鎮守で酒食を饗するという型が多かった。そのためか、サカムカエの本来の意味を忘れ、旅の出立 帰着の酒宴と解している例もある。日田郡の庄屋日記に「 追酒迎(おいさかむかえ)」の語があるが、これは出立する人の送別会の意で使われている。旅に出て気になるものに土産物がある。そこで「清水焼茶腕壱ッ宛」(城後村)とか「手軽之扇子一本宛」(「 矢幡健文書 」)などを取り決め、負担の軽減をはかっている。城後村の講帳前文には、各地の名所旧跡などをくわしく記しているが、これは遠国まで行くのだから見落としの無いように記したとある。伊勢参宮を一生一度の宿願とするとはいえ、多くは上方見物 物見遊山も大きな目的だったのである。
〈抜け参り〉
経済的あるいは身分的に伊勢参宮できない人たちは、無断で行かざるを得ない。各藩とも抜け参りの禁令を何度も出しているので、江戸時代を通じて多くの抜け参りがあったことが分かる。十分な金を持たずに出かけるため、寝むしろを背に野宿を重ねながらの旅であり、中には「勧進参り」をする者もいた。道中喜捨を受けながらの旅である。帰ってくると当然処罰を受ける。臼杵藩の例では、男は7日間の追込み、女は 叱(しかり)となっている。江戸時代に何度か繰り返されたお蔭参りも抜け参りのことである。明和8年(1771)のお蔭参りでは、伊勢松坂(三重県)の人の記録によると、7月20日に「豊後豊前より女道者大分御座候」とある。帰国後の処罰は単なる抜け参りより厳しく、文政13年(1830)の 杵築藩 では女性で「禁足50日」というものであった。
参考文献 新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』
[小泊 立矢]
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