塩谷大四郎 ( しおのやだいしろう)

名郡代か?

 1770−1836  代官 西国郡代 。名は 惟寅(これのぶ)のち 正義(まさよし)。俳号は 助廉(じょれん)。五村 呉村、五損とも号した。幕臣粟津清喬の次男として生まれ、天明8年(1778)御勘定塩谷 奉正(ともまさ)の養子となった。奉正の役高は150俵であったが、家禄は25俵という微禄であった。大四郎は寛政4年(1792)御勘定に採用され、切米100俵を与えられた。時に大四郎は23才。寛政8年には栄進して御勘定吟味改役となり、寛政12年には代官に任命され、6月4日に丹後 但馬5万石の幕府領支配を命じられ、役高150俵を与えられた。この年8月3日、赴任地丹後国熊野郡久美浜(京都府)の陣屋へと出発。民政の実績をあげ、文化2年(1805)5月に支配地は6万石に増加した。同9年には、摂津 藩磨支配の代官に転じ、大坂堤奉行廻船役ならびに御蔵御取締という役も命じられた。大四郎は、代官として豊かな経験と民政の手腕が認められ、文化13年 閏(うるう)8月九州の 天領 10万石支配の代官に任命され、翌14年10月25日、 日田陣屋 に着任した。
〈西国郡代としての業績〉
 大四郎は着任以来、天保6年(1853)まで19年間、豊後 豊前 日向の天領10万石、後には肥前松浦郡 筑前 怡土(いと)郡 肥後天草郡、五家荘を加えて、一時16万石余りの幕府領を治めた。文政4年5月、西国郡代に昇任、役高400俵に加えて 足高(たしだか)が100俵に加増された。塩谷正義は、民政に意を用い在任中、その政治的識見や行政的手腕によって多くの業績をあげた。
【公共土木事業】
 塩谷郡代の業績で代表的なものは、公共土木事業である。 小ヶ瀬井路 の開さくによって、13か村で500町歩の水田をうるおした。また 隈川 中城川 の改修工事と通船によって、日田−関の 年貢米 運搬を容易にし、百姓に便宜を与えた。宇佐郡の 浜高家(はまたけい) 順風 高砂(たかさご) 郡中 神子(みこ)山 南鶴田 北鶴田 久兵衛 岩保 乙女(おとめ) などの新田、 国東半島 の 呉崎(くれさき)新田 (豊後高田市)、筑前 怡土(いと)郡 冠(かむり)の千早新田の造成、日田 玖珠間の道路改修など多くの事業を推進した。命令はしたが、事業に必要な資金は民間や町村から出させ、日田御役所からの財政支出は、ほとんどしなかった。呉崎新田の場合、工事費銀680貫のうち、160貫を日田 玖珠 下毛 直入4郡の高割(高1石につき銀2匁7分8里あて)とし、ほかに 隈町 80貫 豆田町 40貫、日田郡200貫、玖珠郡150貫、下毛郡50貫、それぞれ有志に出させている。
【社会福祉事業】
 陣屋の近くに 陰徳倉(いんとくぐら) を設立したことと、宇佐郡内に 盲人養育田 を設けたことがあげられる。陰徳倉4棟に、隈 豆田両町の有志から寄付させた米712俵(1俵3斗入)を備蓄して、火事などの災難にあった人々や一人暮らしの老人に救い米として施した。盲人養育田は、宇佐郡内の富める人々に呼びかけ銀27貫936匁の寄付を得て買った。5町9段余の田である。その田から得る収穫から年貢を納めた余りの得米36石余を郡内の盲人養育費にあてたのである。 乙女八幡社 境内に盲人養育田碑が建っている。盲人養育田は15か村に設けられた。
【人民の教化】
 塩谷郡代は、和歌 俳句 教訓歌 文章に巧みで、その能力を生かして人民教化に尽力した。『 聞驚津計子(きいておどろくつけこ)』と『孝行和讃』を著述し、村々に配布し村民に読みきかせた。郡代は卑俗な表現で、いくつもの教訓を書き残している。隈町の山田 森 日隈三氏に命じて巨石に彫らせて作らせた「孝経碑」は、後に 大原八幡宮 の境内に移された。以上は、郡代の人民教化策である。
【生前の評価】
 塩谷郡代は在任中多くの業績を残したが、そのため村や町村の有志に多くの出銀を命じたので不満の声が、ささやかれた。「その政治が、はなはだむつかしく万事手間がかかり、そのための内外の出費が多く、進物 賄賂(わいろ)も多く行われた。火事見聞の御役出動にも祝儀金をさし上げねばならなかった。もちろん年始 歳暮の祝儀も前代にないほど余分になり、村方の入用なども同様で、先々代羽倉様の時よりも3増倍にもなって、町の者も村の者も困窮した。」(『 永代記』)また郡代は、隈町7人から二度にわたり借金し、一部は返済したが、1,475両は切り捨てにして呉れということで、返済しなかった。「塩鯛( 塩 谷 大 四郎)は元のブエン(無塩)に立ち返れ、塩が辛うて舌(下)がたまらん」という狂歌は、塩谷郡代に対する不満の表現であろう。
【死後の評価】
 塩谷郡代在任中は評判がよくなかったが、その死後13年の嘉永2年(1849) 慈眼山 上に「故 府尹(ふいん)塩谷君之碑」(銘文は 広瀬 淡窓(たんそう) 作)が建てられ、明治18年(1885)50年回忌が盛大におこなわれたのは、塩谷郡代の遺徳によるものであろう。呉崎の 産土(うぶすな)神社 境内の塩谷公の銅像も村民の公への感謝の表現である。
 参考文献 日田郡興農会『塩公事暦』
[首藤 助四郎]

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