塩浜 ( しおはま)

府内塩と姫島塩

〈主な生産地〉
 江戸時代、 国東半島 から 別府湾 の海岸線ではあちこちで炎天下の中、塩を作る姿がみうけられた。特に別府湾岸の製塩は歴史が古く、大分郡 笠和(かさわ)郷 で(大分市)は平安時代末から 由原(ゆすはら)八幡宮 に供えるための塩浜が開発されていた。のちに 府内藩 領となる 萩原村 幕府領 原村 (大分市)が江戸初期からの塩浜として知られている。元和5年(1619)当時 岡藩 領であった萩原村では8月の大風雨により塩浜が大きな被害をうけた。同村の絵図をみると、河口の砂州上に塩浜が開かれている。府内藩領となっても引き続き行われ、生産された塩は「 府内塩 」として遠く阿蘇や延岡まで売りさばかれていた。幕府領原村でも寛延2年(1625)村人44人が塩年貢を納めており、早くから塩浜が営まれていたようだ。また、この地域の塩浜開発には慶長の大地震(1596)が大きな影響を与えている。寛文7年(1667)原村の善右衛門は 地震 により無田となった所に新しく塩浜を築造しており、同村の海岸よりにあった松崎村は「古へぢしんにめっきゃく」して塩浜となっていた。この他岡藩唯一の海岸部である 三佐村 は藩にとって重要な製塩地で文化元年(1804)塩浜は38か所あり、面積合計約3町3反であった。これら別府湾岸と並ぶのが 姫島 である。小倉細川藩領であった慶長15年(1610)から元和8年(1622)までの12年間に約9町8反の塩浜が開発され、特に元和8年は7町8反余りにのぼり、生産高も約200石で、 姫島塩 にとって一大画期であった。この開発の結果島全体で44名が塩浜所有者となった。同年の島の家数は81軒で、約半数が 製塩 にたずさわるようになった。姫島における製塩はまさに島をあげての一大産業だったことがわかる。
〈生産方法と塩売り〉
 岩塩の存在しないわが国では、製塩とは海水から97%の水分を取り除き、3%の塩分をとることである。その過程は海水の濃縮と煮詰めからなる。歴史は古く縄文時代後 晩期にまでさかのぼる。塩浜がつくられるのは奈良時代で、中世の塩浜には 揚(あげ)浜と自然浜の2様式があった。揚浜式は塩浜が満潮面より高いところに作られ、人力で海水を 汲(く)み上げ、砂に 撒(ま)く。一方、自然浜は満潮時には海となり、干潮時には 干潟 となる浜を利用する。両者ともに日照と風によって水分が蒸発し、塩分が付着した砂を集め、これに海水を注ぎ濃塩水を作る。これを釜屋において煮つめ塩を作るのである。自然浜では、海水を汲み上げる労力を必要としないが、乾燥時間が干満の間に限られる難点がある。これを解決したのが江戸時代初めに開発された入浜式塩田である。塩浜は堤防により海から閉ざされる。塩浜の周囲には溝が掘られ、堤防の 樋門(ひもん)からとりこまれた海水が溝から毛細管現象によって砂に浸透する。さらにこれを促進するために溝から直接海水を撒く。姫島の塩浜は江戸時代初めは自然浜式で、入浜式になったのは嘉永6年(1853)のことであった。以上のように製塩作業には砂を乾燥させるために強い日照と風が不可欠であり、気候条件に左右される。萩原村の場合、最も好条件の夏には1反あたり1日1石5斗ができる。しかし、春と秋には1反あたり3日で1石4斗と約3分の1となり、さらに冬になると5日で1石2斗にまで落ち込んでいる。大潮 雨雪 大風など悪条件の日を除き、製塩に適しているのは1年の内約150日であったという。塩浜の近くには濃塩水を煮つめるための釜屋が作られていた。三佐村では天保11年(1840)に周囲26間(約47m)かや作りの釜屋の建設を計画している。煮つめに使う燃料は松葉で、萩原村では1日6釜づつ 焚(た)く計算で150束を使用している。このように生産された塩は普通塩問屋の下に集められ領内に販売される。府内藩では18世紀半ばすぎまで城下の「魚屋」18人により販売されていたが、その後寛政10年(1798)には上紺屋町新兵衛が年間30石の運上で塩問屋となり独占するようになった。しかし、天保4年(1833)に城下での塩販売は他国産を禁止、萩原村産のみとし、値段についても塩生産者と相談の上決めることになった。他国産塩をめぐる塩問屋と生産者の対立があったのではなかろうか。三佐村の場合をみると、やはり塩問屋が一手に握っている。さらに、生産までも問屋の支配下にあった。問屋は用具から経費まで一切を負担し、「塩浜稼ぎ」の者に生産にあたらせ、できた塩を全て集荷する仕組みとなっていた。さて、注目されるのは府内塩の城下近郊農民による塩売りである。販売地域は野津原 臼杵 佐伯や直入郡から遠く阿蘇まで及び、馬の背や棒手振りなどで運ばれた。享保13年(1728)には南下郡村で87人、羽田村で40人、 豊饒(ぶにょう)村で37人にものぼる村人たちが行商に出かけている。彼らは1年に5〜10日づつ、17 8回出かけることは珍しくなく、農閑余業として大切な収入源となっていた。
[長田 弘通]

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