私・家塾 ( し・かじゅく)
師匠の自宅が学舎
江戸時代から明治時代初期にかけて、学識者が自宅を学舎として門弟を教育するために開設した教育施設。
〈私塾〉
幕藩に士官しない民間の学識者が幕藩の援助を受けないで設立した塾を 私塾 と呼ぶ。江戸時代中期以後、幕府の儒官養成によって、一時、私塾の開設が衰えたが、後期になって、再び発達した。これは 寺子屋 よりも高度な教育内容が要請されたこと、国学や洋学の発達により、その私塾が加わることに原因があると考えられている。現在判明している最も古い塾に、元禄11年(1698)に開業の 清野善愚(きよのぜんぐ)塾 がある。清野塾は宇佐郡佐田(宇佐市)にあり、漢学教育を内容とした。延享4年(1747)に廃業。以後、宝暦年間(1751〜64)に1、天明 寛政年間(1781〜1801)に6、文化 文政年間(1804〜30)に9、天保 弘化 嘉永年間(1830〜54)に26、安政 文久年間(1854〜64)に7塾が開業している(『日本教育史資料』)。大部分が漢学塾であるが習字 筆道を加える塾もあった。桜町(中津市)の 道生館(どうせいかん) ( 渡辺 重石丸(いかりまる) )や草地村(豊後高田市)の 川面舎 (近藤弘記)のように国学を中心とする塾も開かれた。
また、森村(玖珠町)の 学半舎(がくはんしゃ) ( 園田 朝弼(ちょうひつ) )は和漢学 兵学 医学を内容とした。塾主の身分は士29、神官 僧侶6、医者 平民がそれぞれ5、浪人1、不明3となっており、武士の塾主となる者が最も多い。二豊の私塾のうち、文化2年(1805)、 広瀬 淡窓(たんそう) が日田に開塾した 咸宜園(かんぎえん) は全国的に著名な私塾であった。淡窓は長期にわたって塾主をつとめ、子弟の教育に携わった。淡窓以後、10代の塾主が代わったが、咸宜園の名声が高まるにつれて入門者があいつぎ、その範囲は68か国中、65か国に及んだ。咸宜園の教科には漢学 天文 蘭学 医学 数学 兵学 礼学などがあり、教育法は19の複合等級制をとり、 月旦(げったん)表によって等級をきめ、数か月ごとに及第を決定する三奪法によって行われた。 豊後三賢 のうち、最も早く私塾を設けたのは 三浦 梅園(ばいえん) である。宝暦年間に邸内に設けられた塾は梅園または 梅園塾 と呼ばれる。科目は漢学 修理学であった。門弟は約200人。晩年には、梅園の令名によって入門者が増加、塾舎に収容できず、付近の民家に寄宿する者もあったという。教育は門弟の個性や興味 関心を重視して行われた。塾の組織として、学頭(門弟の長) 補正(学頭を助ける役) 威儀監(門弟の監督の役)
門監(塾門の開閉の役) 学正(塾主に代わって問題を記録する役) 監事(2人、毎日の出欠をとる役)、このほか、給仕(来客を接待する役) 僕(薪水の世話役)をつくって、塾運営の円滑化を図っている。また、塾生に学習 生活態度の心得を示し、塾教育の向上を期した。 脇蘭室(わきらんしつ) は、寛政元年(1789)、豊岡村( 日出(ひじ)町)に私塾 菊園(きくえん)塾 を開業した。寛政10年、熊本藩校時習館に招へいされたが、翌11年、辞して豊後国鶴崎(大分市)に移り、菊園塾を再開。科目は漢学。門弟は106人を数えるが、もっと多数にのぼると考えられる。高弟に 帆足 万里(ばんり) (日出) 角田九華(つのだきゅうか) (竹田) 毛利 空桑(くうそう) (鶴崎)がある。学問の基本は修身にあり、その要諦は人倫を明らかにすることを示し、子弟同行の精神を主張した。帆足万里は、天保13年(1842)、 南端(みなみはた)村(日出町)に 西 精舎(せいえんしょうじゃ) を開設。科目は主として漢学であったが、医学生には医学書を、僧侶には仏書を講じた。門弟はおおよそ200人。素読生 四書生 五経生に分けて教授、試験で及第を判定した。
〈家塾〉
塾主が幕府や藩の援助を受けて開設した教育施設をいう。二豊の家塾は13が数えられている。大部分が19世紀前半に創立された。最も早い家塾は 岡藩 の 輔仁(ほにん)堂 で、享保11年(1726)に設立された。貞享2年(1685)、藩主 中川 久恒(ひさつね) は備前の儒医 関正軒(せきしょうけん) を招へい、竹田村 杣谷(そまだに)(竹田市)にある同氏の邸内に学舎を設けて輔仁堂と称し、藩士の子弟を訓導させた。のち、輔仁堂は 藩校 となる。府内藩の輔仁堂は、寛政2年ころ、 竹内 東門(とうもん) によって開塾された。東門は藩の儒官であり、後継者も藩からの給費を受けている。このように家塾主は藩士、もしくは藩士に準じる身分であった。 日出藩 では、文化年間(1804〜18)、帆足万里の邸内に藩費をもって一舎を建築、稽古堂と名付けて藩士の子弟を教育させた。 稽古(けいこ)堂 は万里の家塾であるが藩校の性格をもっていた。肥後藩領の鶴崎(大分市)には、文政7年(1824)、毛利空桑による 知来(ちらい)館 が設立された。空桑は藩から 扶持(ふち)を受け、鶴崎在住藩士子弟教育を命じられた。安政4年(1857)、藩は知来館の再建築に当たって費用を支弁している。 島原藩 は、弘化元年(1844)以後、飛び地の入津(豊後高田市)にある 鴛海米岳(おしうみべいがく) の 涵養(かんよう)舎 を援助して塾生の指導に当たらせた。豊前 豊後にはこのほか、 中津藩 に 山川塾 ( 山川 東林(とうりん) ) 誠求(せいきゅう)堂 ( 手島 物斎(ぶっさい) ) 晩香(ばんこう)堂 ( 白石 照山(しょうざん) ) 道生館(渡辺重石丸)、日出藩に 関塾 ( 関 蕉川(しょうせん) ) 稽古堂( 米良悔堂(めらかいどう) )、森藩に学半舎(園田朝弼)、 府内藩 に 大渡(おおと)塾 ( 大渡 靄村(あいそん) )の家塾が設けられた。
参考文献 鹿毛基生『大分県の教育史』
[芦刈 政治]
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