志賀氏 ( しがし)

豊後南郡の大領主

  志賀 能郷(よしさと) (入道 阿法(あぼう))を祖とする 大友庶子家 中の、「大友三家」の一つ。父は 大友 能直(よしなお) 、母は高山四郎 重範(しげのり)の娘 風早禅尼(かざはやぜんに) 深妙(しんみょう) 。本領は豊後国大野郡 大野荘 志賀村 半分南方(朝地町)。延応2年(1240)4月6日母深妙より同村地頭 職(しき)を分与され、同地を名字の地として土着し志賀氏を称した。
〈志賀氏系図〉
【北志賀氏】能直−能郷−泰朝−忠能(貞朝)−能長(頼房)−氏房−親理−頼資−親明−親賀−親昌−親家−親泰−満延−親毎−親益−親守−親孝−親次(親善)−親勝
【南志賀氏(庶家)】能郷−禅季…朝郷…宣元−重利−義天−親方−親賀−親泰−親正−親有−親定−鑑隆−鎮隆−親政
 「 志賀氏系図 」は、南北朝期以後古文書と合致しない所があり、今後の検討を要する。惣領家は志賀村に定住したが、応安2年(1369)ころ大友惣領家から 氏房(うじふさ) が隣接の直入郡 直入郷 の代官職 検断職を与えられ、一旦同郷 騎群(きむれ)城 に移り、のち 岡城 に移った。これに対し2代 泰朝(やすとも) の弟 禅季(ぜんき) は、 近地名(ちかちみょう) を与えられ 近地氏 を称するが、 重利(しげとし) の時元徳2年(1330)に直入郡 南山(なんざん)城 (久住町大字 白丹(しらに))に移った(「志賀氏系図」)。ただし移遷の時期については、 義天 の時ともいい(『 豊後国志 』)一定しない。この様に志賀氏が二流に分かれたので、惣領家を 北志賀氏 、庶家を 南志賀氏 とも呼ぶ様になる。
〈志賀氏所領の拡大と発展〉
 貞応2年(1223)初代能郷は、父能直から豊後国 安岐(あき)郷 横城(よこぎ)山 院主(いんず)職、大分郡 勝津留(かちがづる) ( 高国府(たかごう) という)、国東郡 夷(えびす) 長小野(ながおの)、安岐郷 諸田(もろた)名 地頭職等を譲与された。このうち諸田名は比叡山僧侶 備後僧都幸秀(びんごそうずこうしゅう) が領有していたものであるが、大友能直が仁王丸(能郷)を養子にするという条件で強引に獲得したもの。これより先、幸秀は7か所を能直に譲進したが、その類領として諸田名を寄進すると述べているのをみると、前記の諸所も幸秀譲進の所領であろう。本領大野荘志賀村半分南方地頭職は、能直から母深妙の手を経て譲与されたものであることは既述。能郷の下向土着はこの延応2年(1240)、ないしほど遠からぬ後のことであろう。能郷の次子禅季は、志賀村南方近地名の外に、 下村 内 泊寺(とまりじ) 院主職兼地頭職、志賀村内 筑紫尾寺(ちくしおじ) 等を譲られた(「 志賀文書 」)。 蒙古(もうこ)合戦 によって、志賀氏は筑前国 三奈木(みなぎ)荘の一部を勲功の賞として与えられたがこれが鎌倉期に獲得した唯一の新恩所領であった。鎌倉時代に停滞的であった志賀氏の所領は、南北朝期になると、南北争乱によって恩賞地が増大する。とくに直入郷に移遷してから、国内所領が急増し、戦国期 大友 義鑑(よしあき) 代には肥後 筑後 筑前 豊前方面に拡大し、 大友 義鎮(よししげ) 時代には、南郡(大野 直入両郡)第一の大領主といわれるまでに発展した。天文19年(1550)義鑑横死後、 紋の衆 の一人として 志賀 親守(ちかもり) (入道 道輝(どうき) )は大友氏 加判衆(かばんしゅう) に列し、大友氏の政治の枢機に参与した。その子 親慶(ちかのり) ( 親孝(ちかたか) )も永禄末から元亀初年にかけて加判衆となっている。(『 増補訂正編年大友史料 』)。
〈南志賀氏薩軍に内応〉
 天正14年(1586) 島津軍 が豊後に侵攻した時、北志賀氏の親守(道輝) 親慶(親孝とも、入道 道益(どうえき) )及び南志賀の 鑑隆(あきたか) 鎮隆(しげたか) とともに敵軍に内通し、大友氏の衰退を早めた。いわゆる 南郡(なんぐん)衆 のうち、反逆の中心人物は 二階崩れの変 で討たれた 入田親誠(にゅうたちかざね) の子 義実(よしざね) で、牢々の身を 大友 義統(よしむね) から召し直されていたが、本の通りの所領を 安堵(あんど)されなかったので、一味6千人を率いて 緩木(ゆるぎ)城 (祖母山の支峰)に 篭(こも)り敵軍に内応した。志賀道輝は大友吉統の大野郡宇目村警備の命令を受けながら無断逃亡したことで勘気を 蒙(こうむ)り、 迦住城 に隠居していたが、義実に一味して薩軍に通じた。子の親慶は義統の召仕 一之対(いちのたい)を盗んで、これ又勘気を蒙り、 菅迫(すがさこ)に篭居して義実に通じた(『 上井覚兼日記 』)。南志賀氏の鑑隆 鎮隆らも敵軍に内応したことは、秀吉軍の来援によって薩軍が退却した後、大友氏によって亡ぼされていることによっても 明瞭(めいりょう)である。
〈志賀 親次(ちかつぐ)( 親善(ちかよし))の善戦〉
 以上のような志賀一族の無節操な態度に対し、ひとり北志賀氏の惣領 志賀親次 のみは、堅く節義を守り、若冠よく岡城を死守したのみならず、機を見て城から出撃し、薩軍をなやました。この戦いで大友方の城で落城しなかったのは、 丹生島(にゅうじま)城 栂牟礼(とがむれ)城 (佐伯市 弥生町)とこの岡城の三城のみであった。 豊臣秀吉 は親次の勇戦に感じ、「其城堅固に相抱え候段、尤も以て神妙に 思食(おぼしめ)され候」という朱印状を送りこれを賞している。戦後秀吉は日田郡 大肥(おおい)荘 1千石を親次に与え、のちに日向に一城を与えることとしたが、宗麟の日向一国辞退で実現しなかった。親次(善)は 大友氏除国 後、安芸の 福島 正則(まさのり) 、のち備前 小早川秀詮(こばやかわひであき) に仕えたが(「志賀文書」)、子孫は肥後細川氏に仕え幕末に至った。
 参考文献 渡辺澄夫『豊後国大野荘史料』 同「島津軍侵入と豊後南郡衆の内応」(『増訂豊後大友氏の研究』)
[渡辺 澄夫]

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