志賀親善 ( しがちかよし)
太閤秀吉を感嘆させた勇将
1568−? 戦国時代末−江戸時代初期の武将。竹田 岡城 を本城とした 北志賀氏 。父は 親孝(ちかたか) (入道 道易(どうえき) )。母は 大友 宗麟(そうりん) の正妻 奈多(なだ)氏 と先夫との間に所生した娘。通称太郎。初め 親次(ちかつぐ) 、のち親善。小左衛門(湖左衛門とも)。天正10年(1582)受洗、教名は ドン パウロ 。文禄2年(1593)大友家 改易(かいえき)後、 太閤秀吉 より日田郡 大肥(おおい)荘 内に1,000石を賜わる。のち、 福島 正則(まさのり) に仕え、安芸 備後両国内に領知を与えられ、広島に居住。その後、秀詮に仕え備前 美作両国内に所領を与えられたという。秀詮は 小早川秀秋(こばやかわひであき) か。生年は「 志賀氏系図 」によるが諸説がある。
〈キリシタンとの出会い〉
親次12、3歳のころ、 大友 義統(よしむね) の奥方の侍女で キリシタン であったイザベルという娘が、志賀道易の屋敷に追われて来た。彼女は幼少の時に洗礼を受けており、追われた後もキリシタンとしての務めを怠らなかった。 跪(ひざまず)いたり、十字を切ったりするのを目撃した親次は、執ようにその理由を質問した。彼女は自分で理解している範囲のデウスの話や教えなどを答えた。これによって親次は、キリシタンになりたいという意欲にかられ、神仏の教えを崇敬しなくなった。さらに、イザベルからキリシタンの祈りを学び、暗記するためにそれを書き取り、キリストや聖母マリア像を集めて礼拝し、信心のため必要な品々を集め、受洗できるよう導き給えと祈っていたという。また、宗麟の娘を妻にしている熱心なキリシタンである叔父 志賀 親教(ちかのり) からも聖人や殉教者の物語を聞き、ますますキリシタン受洗の意欲を燃やした。その後、父道易と臼杵を訪れた親次は、教会で フランシスコ ガブラル に会い強く洗礼を受けたいと申し出ると共に、父の監視の目をかすめて教会に出入りした。しかし、祖母に当たる イザベル (宗麟の正妻奈多氏)に 嗅(か)ぎつけられ、従前よりきびしい父の監視を受けることとなった。教会側は、親次の授洗の可否を宗麟に調停してもらうことにした結果、洗礼は当分延期されることとなった。
〈親次の受洗と迫害〉
天正12年(1584)親次は志賀氏の家督を父道易から譲られ、義統から 安堵(あんど)された。翌天正13年、7年間抱き続けて来た洗礼を受けた。洗礼は、宗麟 義統ならびに年寄衆等重臣が会合した 府内 の教会で行われた。監視の目をかすめ、夜間教会を訪れた親次は、豊後の上長 ペドゥロ ゴメス 師によって洗礼を施され、ドン パウロの教名が授けられた。親次の受洗は祖父 道輝(どうき) を激怒させた。道輝は義統に対し、入信しないと約束した親次を厳罰に処すよう要求した。これに対し義統は親次に 棄教(ききょう)を命じるが、もし服従しなければ国外に追放し、領地等あらゆるものを没収するであろうと答えた。直ちに、使者として 高山 大津留(おおつる) 両名が派遣され、義統の意志が伝えられた。親次は岡城近くの神社に故意に放火させることでこたえ、かつて義統が 万寿寺(まんじゅじ) に放火したこと見習ったまでだとつけ加えている。さらに、義統は親次の父道易にも親次の入信を阻止しなかった 科(とが)を責めたてている。一方親次は、祖父道輝に対し家督を返還する旨を申し出ることによってキリシタンを認めさせた。
〈太閤秀吉を感嘆させた勇将〉
天正6年の 日向高城合戦 で大友軍に大勝した島津勢は、その後北上して肥後 肥前 筑後 筑前を攻略し、同14年には最終目的地豊後への侵入を開始する。肥後口から侵入する 島津 義弘(よしひろ) の先鋒 新納忠元(にいろただもと) は、10月20日志賀親次を撃つべく 浪野原(なみの )に向かった。岡城に 拠(よ)る親次は、兵を浪野十二口に派遣して防衛線を張った。21日の会戦で互角に戦い、島津軍を退けた。22日、稲冨新介を将とする五千余兵が 片賀瀬原かた,が,せ, ()に陣を敷き、先鋒は岡城下 滑瀬(ぬめりぜ)橋まで進撃した。親次(善)は弓砲で応じ、島津軍を撃退したという(『 大友家文書録 』)。島津方史料によると、10月21日阿蘇郡南郷野尻(高森町)に陣を敷いた義弘軍は、22日高城(竹田市)を攻略、同夜内応者 入田宗和(にゅうたそうわ) の城に入り、23日 片瀬田(かたせだ)城 を陥れ、24日には 津箇牟礼(つがむれ)城 (竹田市)を攻め、岡城には入田宗和と 赤星備中守 をして攻めさせ、親次に人質を要求した。親次は言を 左右(そう)にして人質差し出しを引き延ばした。義弘もまた攻略不可能とみて12月22日志賀道易の城に入り、24日には 朽網(くたみ)城 に入り越年した。親次については「虚病を使い城内に 逼塞(ひっそく)していた」と評しているが、天正15年正月3日付けで秀吉から、岡城に踏みとどまった忠義を賞せられ、17日にも再び賞せられ、秀吉の豊前表到着予定を知らされている。また、2月8日には12月の直入郡 駄原(だのはる)畑 篠原目での合戦に対する感状が与えられているなどのように、親次に対する秀吉の評価は極めて高い。 文禄の役 で大友家が改易された後、日田郡大肥荘内に千石余の所領を与えられたのも、天正14、5年の対島津合戦の評価によるものであろう。
参考文献 『フロイス日本史』
[橋本 操六]
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