重光葵 ( しげみつまもる)

降伏文書に調印した外務大臣

 1887−1957 外交官 政治家。名の葵にちなんで 向陽(こうよう)と号した。明治20年7月29日に大野郡長であった重光 直愿(なおよし)の二男として三重町の官舎で生まれた。母は松子。11歳で母の実兄重光彦三郎の養子となり、安岐町大字山口の重光家を 嗣(つ)いだが、杵築市大字本庄の実家で育てられた。 杵築中学 卒業後、熊本の五高大学予科独法科を経て、明治44年東京帝大独法科を卒業した。
〈外交官となる〉
 明治44年高等文官外交科に合格し、24歳でドイツ大使館に配属されたのを始めとして、イギリス アメリカ勤務ののち大正8年(1919)には 第一次世界大戦 講和全権随員を勤めた。その後外務省条約局長 アジア局長 参事官を歴任。北京 ベルリン勤務ののち昭和4年(1929)に上海駐在総領事となり、翌年代理公使となる。 満州事変 中の昭和7年1月に 勃発(ぼっぱつ)した 上海事変 に当たって、停戦に尽力していたが、同年4月29日が重光葵駐華公使の運命の日となった。その日は天長節にあたり、上海でも新公園で白川大将をはじめ陸海軍武官 外交官臨席の観兵式が催された。彼はその閲兵台上で朝鮮の独立運動家が投げた爆弾により重傷を受け、右足を太ももから切断したのである。
〈革新派外交官から外務大臣へ〉
 昭和8年上京した 隻脚(せっきゃく)公使は異例の抜擢を受け、斎藤 実(まこと)内閣の外務次官に就任。次の岡田啓介内閣でも留任して外相広田弘毅を補佐し、中国本土不可侵 門戸解放 防共協力を軸としたいわゆる広田3原則を推進した。重光が外務省革新派として活躍をはじめたのは昭和10年からであった(田浦雅徳「昭和十年代外務省革新派の情勢認識と政策」『日本歴史』第493号)。彼は2 26事件後の昭和11年4月に外務次官をやめ、同年11月に駐ソ大使としてモスクワに着任。同13年には 張鼓峯(ちょうこほう)事件の解決に当たっている。翌14年5月のノモンハン事件のときには、彼は駐英特命全権大使としてロンドンに赴任していた。この年9月1日 第二次世界大戦 が始まり、重光は日英両国の調和と中国問題の解決に努力したが、日本政府は破局への道を選択していた。帰国した彼は「戦争不介入、日米交渉成立の信念を堅持しつつ近衛首相、豊田外相はじめ、参謀本部における数百名の将校連に、心血を注いで信念を 吐露(とろ)し、また両陛下にも御進講申しあげた。かれに憲兵の尾行がつくようになったのもこの頃からである」(豊田国男 西香山編『重光向陽小伝』二豊の文化社 昭和32年)。第3次近衛内閣は重光大使を米国に派遣して野村大使に協力させようとしたが実現せぬまま倒閣し、東条内閣によって日米交渉は決裂し開戦した。同16年12月中国特命全権大使を拝命して赴任し、中国に対する新政策を実行中の同18年4月、東条英機内閣の外務大臣に就任した。この年11月に大東亜会議を東京で開催し、民族主義を中核とした宣言を発表したが、一方では日ソ中立条約の強化にも成功している。同19年7月から20年4月にかけては小磯 国昭(くにあき)内閣の外務大臣として留任し、大東亜大臣を兼任したが時すでに敗色濃く、本土への空襲も激しくなっていた。重光は大東亜新政策を推進し各国の独立に成果を収めたが、中国問題に関しては小磯首相と意見が合わなかった。
〈降伏文書に調印〉
 戦局は最悪の事態を迎え、4月7日に鈴木貫太郎終戦内閣が生まれたのを機会に外相を辞任したが、 ポツダム宣言 を受諾した直後の8月17日、終戦処理を任務とした 東久迩宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣が誕生した。重光は再び外相となり、同年9月2日米国軍艦 ミズリー号 上において日本政府を代表して降伏文書に署名した。このとき統帥部を代表して調印したのは大分県出身の 梅津美治郎(うめづよしじろう) 参謀総長であった。重光の著書『昭和の動乱』(中央公論社)によると「降伏文書が調印せられて数時間ののち、九月二日の夕べ、外務省の横浜出張員鈴木九万公使が、マッカーサー司令部から、日本全域に 亘(わた)って軍政を布告する命令写しを受取った。(中略)記者(重光)はその夜思案をこらして翌九月三日早朝横浜に至り、総司令部においてマッカーサー総司令官にサザランド参謀長同席の上会見し」軍政を 布(し)くことを思い止まるように要請し、中止させている。昭和21年4月29日重光はA級戦犯として巣鴨刑務所に収容され、東京裁判で禁錮7年の判決を受け服役。同25年に仮出所した。同26年9月にサンフランシスコ条約が締結された後刑期を満了した重光は翌年6月 改進党総裁 に迎えられて政界に入った。大分2区から 衆議院議員 に連続3回当選。同29年に結成された日本民主党の副総裁として、鳩山一郎内閣の 副総理 外務大臣 に就任した。同31年12月第3次鳩山内閣のとき、国連加入を認められた日本代表として、第11回総会に出席し国際社会への復帰を宣言した。帰国直後に外相を辞任。翌年1月26日に69歳で死去した。墓のある安岐町には遺品を納めた「 山渓偉人館 」があり、命日には 向陽祭 を催している。
 参考文献 『重光葵手記』
[小玉 洋美]

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