獅子舞 ( ししまい)

神聖な獅子に芸を仕込む

〈魔払いの獅子頭〉
 獅子は異様な形 貌(ぼう)から、魔払いの霊力を持つとしてあがめられ、 敷戸(しきど)(大分市)の 子々神社 には獅子頭をまつっている。昭和40年代に廃絶するまで、大分市では「お獅子様」の巡幸が行われた。7月1日から7日までは子々神社の獅子、10日から16日までは 弥栄(やさか)神社 の獅子が分担した。他の地区では社寺と庄屋宅に寄るくらいであったが、氏子の集落では軒別に回って出迎えの人の頭、あるいは 荒神(こうじん)様 の前や井戸の上で 噛(か)んで清めた。敷戸のお獅子様は、 古国府(ふるごう)の獅子太夫 広瀬家 に安置されていたが、天正14年(1586)の 島津軍侵入 で焼き打ちされて敷戸に移ったとされる。「 大友家年中行事之次第 」では、正月11日と6月1日に 大友 館(やかた) に参上している。
〈臼杵領の1頭獅子〉
 神として神社にまつられることもあった獅子は、いつのころから演技をするようになったのであろうか。県の南半に分布する獅子は、県南地方の臼杵系と、豊肥地方の 御嶽(おんだけ)流 緒方流 西山古神流 などに大別される。県南地方の獅子は1頭2人立ちで、鼻取りは 天狗 面をつけて軍配を持っている。年代が判明しているのは 三嶋神社 の明和9年(1772)、 臼杵神社 の寛政7年(1795)、 嶽谷神社 の天保10年(1839)、 松島神社 の弘化2年(1845)である。すべて臼杵市であるから臼杵系と称することにする。最も古い三嶋神社の獅子は、弓という胴輪と篭と呼ぶ篭状の尻当てをし、太鼓打ちが猿面をつけている。現在も希望する家に舞い込んでいるが、天保10年の 痢病(りびょう) 流行の際に舞っているから、病除けのための獅子舞である。三嶋神社の神主が、臼杵 嶽谷両神社の神主を兼務していたので、疫病流行の年にそれぞれの神社に伝授したと考えられ、次第に演技性を濃くしたようである。堅浦(津久見市)には獅子と鼻取りに、猿面をつけた少年の道化役が1名ずつ付いているものがある。臼杵系の演技性をさらに強めたものである。 溜水(たまりみず)(野津町)には、文政5年(1822)、敷戸の御獅子様の分霊を観請した獅子がある。弘化2年(1845)の 熱病 流行に際して、病除けのために舞っている。深田(臼杵市) 国分(大分市) 七蔵司(挾間町)のお獅子様は、家々を回って家族全員の頭を噛んでから土足のまま玄関から座に上がり、裏口に抜ける 家祈祷(やぎとう) をしていたものも、病除けの獅子であろう。南海部郡には1頭2人立ちで、少年が団扇取りをする獅子がある。
〈豊肥地方の2頭獅子〉
 80以上の獅子組があった大野郡では御嶽流が主流の座を占めている。各地の獅子組が伝える御嶽流の「御獅子濫觴」は、宝徳2年(1450)、神主 藤原望次 が獅子舞の曲を始め、元和3年(1617)に神主 藤原長吉 が獅子舞の大踊を始めたと記す。しかし、 中野獅子組 蔵の記録には、大永2年(1522)に初めて獅子頭の寄進があり、舞い方は 今山流 とある。さらに安永4年(1775)、 神楽 囃子(ばやし) で舞ったのが御嶽流の始まりであると記す。御嶽社の左右知獅子組は天明8年(1788)、中野獅子組は寛政4年(1792)の伝授書を所蔵している。両獅子組が、奉納開始からあまり時代が経過しないうちに、伝授書を受けたとすれば、御嶽流の創始を安永4年とする記録は信用できそうである。そうであるならば、御嶽流は大永2年の今山流を改変したものとして差し支えあるまい。御嶽流の獅子は雄雌2頭6〜8人立ちで、団扇取りも6〜8人である。演技は獅子が青年であるから主体性があり、団扇取りは児童のために花を添えている感がある。
  大化獅子組 が伝える天保12年(1841)の「 獅子目録 」は、文禄元年(1592)の目録を焼失したので、四社神主相馬丹波正が再交付したもので、 大行事(だいぎょうじ)八幡社 々司 今山組大庄屋などあてになっている。「四社神主」と称したのは 宮砥(みやど)八幡社 神主である。同社蔵の享保3年(1719)の「四社年中行事次第」には、神幸の先払いは獅子2頭であるが、同社は御嶽流の伝授を受けている。今山流に関連して緒方3社の獅子舞が注目される。二宮八幡社の「神獅子由来」は、建久2年(1192)のものを文政9年(1826)に書写したとするが、獅子舞の起源については何も記していない。今山流との関係が定かでないので、緒方町の獅子舞を緒方流と称しておく。三重町には西山古神流がある。向野組所蔵の天明8年(1788)の「 西山古神流獅子目録之覚 」が最も古いが、起源については記していない。
  城原(きばる)八幡社 (竹田市)の 阿鹿野(あじかの)獅子 は、御嶽流の六調子よりも緩い五調子であり、拝殿に上って清めの四方舞をするなど、古いものであることを 窺(うかが)わせる。阿鹿野獅子組は安永9年(1780)の記録を所蔵し、天正14年(1586)の島津軍侵入の難を逃れ、還幸の際に獅子頭がお迎えしたと伝える。
[染矢 多喜男]

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