士族授産 ( しぞくじゅさん)

士族の商法顛末記

 明治維新後、士族たちをなんらかの産業につかせようとした政策を士族授産という。
〈明治初期の士族救済事業〉
 版籍奉還に続く 禄(ろく)制改革 、廃藩置県から 秩禄(ちつろく)処分 への流れの中で、多くの士族は失業を余儀無くされていく。とくに藩兵の解体、 徴兵制 の施行は、武士の主な任務であった軍事をも奪うことになった。こうした事態のなかで、明治4年(1871)末から5年にかけて、旧藩主が領地を離れ東京へ移り住むのを機会に、家臣たちに何らかの生活手段を講じるような士族救済策をとった旧藩があった。旧 臼杵藩 知事 稲葉久通(いなばひさみち) は、臼杵を去るにあたって金722,819円余と、旧物産所の 堀川会所 の権利を藩士全員のために下付した。この下付金を基金に1,094戸、6,654人の結社「 留恵社(りゅうけいしゃ) 」が明治7年に設立され、金融業を中心に木炭 紙 石灰 七島藺(しちとうい) など物産の販売を行っていた。12年1月、 金禄公債 を資本とする 第百十九銀行出張所 が臼杵に設立されると、金融での競合を避けるため 留恵本会 を設け、留恵社 第百十九銀行の両者に出資、利益をはかっている。しかし、米の売買や貸金の件で紛争がおこり、15年6月に 第2留恵社 として改組出発、25年の満期解散後、資産配分をめぐって裁判問題に発展した。旧 中津藩 では、4年10月の旧藩解体に際し銀札6,644貫余をもって、士族の相互扶助機関「 天保義社(てんぽぎしゃ) 」を結成した。この金は天保年間の大凶作のさい、中津藩が家臣の俸禄から借り上げたものを返還したものである。天保義社の事業は金融業であるが、旧中津藩士族の扶助機関的性格が強い点が特色である。7年8月20日、中津地方を襲った台風の被害に対し、倒家1戸につき5円を給付、8年12月からは、死亡者1名につき5円、家屋の焼失7円の給付をはじめている。大分県でも明治6年、鶴崎に 養蚕試験所 や、大野郡 木浦(きうら)(南海部郡宇目町)に 紅茶製造法伝習所 を設け、士族への勧農政策をはじめた。 家禄奉還 にはじまる秩禄処分がすすむと、交付金や公債を資本にして士族の結社が生まれはじめる。7年には佐伯の有慶社、8年には日出の朝陽社、杵築の寄合商社などが設立される。これら士族の結社の主事業は金融業で、10年には37社、12年には113社にもなった。 養蚕 、 製糸 、 紅茶 の製造、旧藩時代の特産物の 和紙 、七島藺などの販売や、汽船を購入して海運業を営むものもあった。しかし、こうした士族の事業は、資金不足や経営のまずさなどから失敗するものが多かった。本格的な士族授産が行われるのは、 西南戦争 後である。
〈政府の士族授産政策〉
 明治7年の佐賀の乱から10年の西南戦争に至る士族の反乱は、禄を離れ職を失った士族の強い反政府感情に支えられていた。西南戦争後、政府はこうした社会不安を解決するため士族授産政策を推進する。その目的は@社会上の目的である窮迫士族の救済、A政治上の目的である不平士族の懐柔、B経済上の目的である士族階級の生産者化=効果的な 殖産興業 政策の遂行であった。その柱は、起業基金を中心とする授産資金の貸与であった。起業基金の大分県への貸付総額は62,692円、うち30,000円が14年4月にこれまで士族授産事業に実績のあった旧中津( 末広会社 )、岡( 開山会社 四山社 )、佐伯( 純洽(じゅんこう)社 )、臼杵及び杵築の士族授産組合に貸与された。申請金額185,000円の16%強という少額で、貸付対象も養蚕 製糸 紅茶製造に限定されていた。翌15年、旧森、府内、日出藩士族及び鶴崎などの旧熊本藩士族、旧岡藩の三佐 海原(いずれも大分市)、犬飼などの士族に対し総額10,000円の貸し付けが行われた。申請金額144,085円の7%弱、1戸当たり4円63銭弱という低額である。残額の22,692円は、大分県が速見郡 勢場原(せいばがはる) (山香町)に士族の開拓村建設費として借り受けた。当初は毎年50戸、8か年で400戸の入植を予定したこの開拓村も計画どうりに行かず、度々計画を変更し、21年には入植目標を200戸に縮少している。この外、13年には速見郡 塚原(つかはら)村 (大分郡湯布院町)に旧臼杵藩士らによって 西洋式農牧場 が開設された。官有地の借地料無料、牛2頭、羊104頭、農具など政府からの借用で始められたこの農牧場は、早くも17年には閉場している。士族授産事業のうち、比較的活況をみたのは養蚕 製糸業であった。15年から18年にかけて官営模範工場の群馬県富岡製糸工場へ宇佐3名、杵築8名、日出3名、大分10名、鶴崎18名、竹田4名、佐伯2名、玖珠2名など県内の授産所から女工が製糸技術の伝習に派遣されるなどして、技術の向上がはかられた。しかし、18年以後、 松方財政 によるデフレーションの不況下で倒産し、工場は士族の手から離れていく。27年の『大分県統計書』に記載された製糸工場11社のうち、起業基金貸付当時の社名を残すのは、中津の末広会社、竹田の四山社の2社に過ぎない。
[佐藤 節]

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