市町村財政 ( しちょうそんざいせい)

戸数割と増税と苦しい台所

 明治21年(1889)4月25日に公布された 市制 町村制 に基づく、最も基礎的な地方政治組織としての市町村における経済活動の総称。市町村財政は、市町村内部で完結せず、郡 府県 国家行財政と不可分の関係にあった。
〈市町村財政のスタ−ト〉
 大分県では、町村制の施行準備として、「独立自治ニ耐ユルノ資力」をもつ「有力ノ町村」を育成するという政府の要求(内務大臣訓令第352号)に沿って有力町村編成のために、 町村合併 を行った。新編成の町村には、徴税 戸籍 徴兵 教育 衛生 土木など膨大な国政事務とその経費負担が課せられた。委任事務は歴史の推移とともに量的にも質的にも増加していったが、財源については何も付加されず、少ない財源で政府の命じる委任事務 経費を 担(にな)わなければならなかった。明治22年の大分県内町村の歳入の中心は 町村税 であった。その内訳は 戸数割 45%余、地価割50%余となっていた。歳出の科目では、役場費が41%弱で1位となっており、一般行政費 教育費を合わせて82%もあり、国政委任事務中心の支出となっていた。町村税でこの支出のかなりの部分を賄っていたとはいえ、町村民の日常生活への支出はほとんど行われず、予算減殺などの措置を伴う官僚機構の強い監視のもとで、財政政策を行うことになったのである。
〈日清 日露戦争にともなう増税〉
 町村財政は、明治30年代後半に転機をむかえた。膨大な戦費を費やした 日露戦争 が、重大な影響を与えたのである。 日清戦争 以後、政府は国税増収のために地方財源の収奪を行い、さらに地方への負担転嫁をも行ったため、制約された県財政 町村財政は独自の租税である戸数割の増税を行った。町村税中戸数割の割合は、明治37年には50%強を占めるようになっている。増税は恒常化し、国民に重くのしかかっていった。明治22年の町村税額を基準にすると、日清戦争中から増加しはじめ、明治35年には4倍強、明治31年にはついに10倍を越えている。このような増税とともに県内町村の歳出総額も膨張するが、科目別にみると明治28年以降は役場費と入れ替わって教育費が1位となっている。
〈最大支出は教育費〉
 明治42年の義務教育年限6年への延長、人口増加による児童数増加とそれにともなう教員増は、教育費を増大させた。県内市町村の歳出科目においても、教育費が絶えず最大支出科目として大きな割合を占め続けた。国が、その一部を負担することで市町村の財政難を緩和させようと「市町村義務教育費国庫負担法」を公布したのは、大正7年(1918)3月のことであった。しかし、この法律は、国家財政の市町村財政への統制 支配を強化する側面も持っており、市町村は歳入面においても独自性を弱めていったのである。大正中期以降、行政需要の膨張にともなう国政委任事務の増大により、市町村の歳出はますます膨張した。大正2年を基準にすると、大正8年には2倍を越え、大正11年には5倍弱に増加している。この歳出膨張を賄うために、市町村税はさらに戸数割へとしわよせされていった。大正15年の 税制改革 で府県税戸数割が廃止され、戸数割は市町村税のみとなった。財源不足の市町村は、昭和2年(1927)には 市町村税 の66%を戸数割に頼らざるを得ない状況となっている。
〈農家の借金は五千万円〉
 昭和5年に『 大分新聞 』(7月27日号)は、農家の苦境を取り上げ、早急な具体的救済策の実行を要求している。前年秋に始まった 世界恐慌 は、経済界へ大打撃を与え、市町村財政にも大きな試練を与えた。歳出面では、教育費 役場費とともに、昭和7年からの高橋財政による時局 匡救(きょうきゅう)政策のため土木費が増大した。歳入面では、最大の収入源は市町村税ではあるが、その歳入全体に占める割合は、徐々に減少している。これを 補填(ほてん)したのは、国庫下渡金 県補助金であった。そして地域的税負担の不均衡が政治課題となり、昭和11年に政府は「臨時町村財政補給金規則」を公布し、町村税負担過重の町村への財源補助を始めた。翌年大分県では、239町村に臨時財政補給金が配当された。この補給金制度は、昭和15年の税制改革で地方交付税となっていった。この税制改革では、国税の中心を 所得税 、地方税の中心を物税と分離し、戸数割が廃止され 市町村民税 が創設された。こうして税負担の均衡化がはかられたわけであるが、 日中戦争 太平洋戦争 の進展とともにさらに増税が行われていった。
〈三割自治の市町村台所〉
 戦後の市町村財政は、市町村行政領域の拡大や悪性 インフレ などにより、財政規模を拡大していった。しかし、政府からの自主財源の保障がないため、国の補助金 地方交付金などに依存せざるを得ず、「三割自治」といわれているように国から多くの制約 統制をうけることになったのである。
[佐藤 晃洋]

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