市 ( いち)
市の花盛りは江戸時代
〈古代 中世の市〉
市の語源については諸説がある。 斎(いつき)が転訛したとか、市をマチと読むことから祭りと同義に解釈するなど、祭礼に関係づける説が有力である。 柞原(ゆすはら)八幡社 の 放生会(ほうじょうえ) を 浜の市 、 賀来(かく)神社 の祭りを 賀来の市 と呼ぶことを考えれば、人が多く集まる祭礼に市が立つことは理解し易い。
県内には祭礼市の古い姿を伝える例が二つある。一つはだまし市であり、他の一つはかたげ市である。だまし市は、5月18日に大分市坂ノ市で開かれる 万弘寺市(まんこうじのいち) の通称である。漁村からの婦人達と農村からの男性たちが、それぞれ海の幸と陸の幸とを物々交換する。暗闇の中で、品物の種類と質を手探りで確かめ、相手の品にはけちをつけ、自分の品の優れたことを自慢して、できるだけ有利に取引をしようとする。明るくなって見れば、まんまとだまされていたと気付くこともまれではない。かたげ市については、『 太宰管内志(だざいかんないし) 』が、 五馬媛(いつまひめ)社 (日田郡天瀬町)、 中山八幡社 (大野郡野津町)、 嵯峨(さが)天皇社 (直入郡久住町)の3社にあることを記している。祭りの夜、男女が顔見知りであろうとなかろうと、処女 人妻の区別なく交接する習俗である。 歌会(かがい)の遺習であると記してあるように、祭りが性の解放を伴っていたことを伝えるものである。五馬媛社と中山八幡社では記憶されていないが、 宮処野(みやこの)神社 (嵯峨天皇社)では、 手拭(てぬぐい)を相手の頭にかぶせることができればついて来た、と伝える。
律令政治が確立すると、都には東西の市、地方の 国府 にも官設の市があった。大友時代の地図には、南大分の東側に市河が描かれている。 豊後国府 にあった市の名残であろう。杵築市宮司の 若宮八幡社 の冬祭りは「 若宮市 」と通称され、奥州の白河、山陰の大山とともに日本3大牛馬市として知られた。この市は承安3年(1173)、10月25日より7日間の市立ちを許可され、大字中の「市」に開かれた。嘉暦3年(1328)、宮司へ奉遷するとともに市も遷されたと伝える。「 大友興廃記 」には、 三重の市 に人々が売買のために群集し、あぶれ者350人ほどが二手に分かれて、切り合う騒ぎがあったと記してある。
〈近世の祭礼市〉
最も盛んであった浜の市は別項に記すので、その他の祭礼市について記す。大分市で浜の市と並んで著名であったのは賀来の市である。「 府内藩記録 」に、賀来の市の出小屋数の記事があるのは、宝暦2年(1752)から元治元年(1864)までの113年間で22年である。出小屋数の最も多いのは弘化3年(1846)の61、最も少ないのは宝暦13年(1763)の16、延べ出小屋数517、年平均24である。出身町村別の出小屋数は府内が最も多く100を超える。賀来神社に近い賀来村 国分村の出小屋数はそれぞれ39 27で、嘉永元年(1848)以降は減少する。延岡領 臼杵領 天領の者が増加し、商品の種類の増加が考えられる。江戸 大阪 越中 伊予 筑前 肥後など、全国各地からの出店が見られるのは文化10年(1813)からてある。主要なものは、油薬 枇杷葉湯(びわばとう) ういろう 生薬 膏薬などの薬類、のぞき 唐犬 蛇遣い 手品などの見せ物である。 猪口(ちょこ)酒売りは天保14年(1843)からで、賀来村の惣五郎など9名が、貧窮を理由に市の期間中に許可される。
嵯峨天皇社の祭礼は「神保会」と通称されるが 神宝会(しんぽうえ) であろう。安政4年(1857)から万延元年(1860)までの、「参詣人並ニ商人書上帳」によって市の一斑を記す。出店の最も多いのは安政4年の26で、翌5年は8に減少している。商品は 肴(さかな)が最も多く、小間物 菓子 蜜柑(みかん) そうめん 寿司が続く。出身地は城下町の岡が過半数を占め、本町 新町 府内町 古町 上町 下町 寺町 殿町からである。岡以外では、今市 木原 日仲 四ッ口 隣蔵 三本松 志賀 田中 阿蘇野 七里峠など、直入 大野両郡の村々からである。以上のほか、神主 仏原組大庄屋 大久保氏(石田村酒屋)が酒店を出している。参詣人は年によって大きく変動するが、祭礼2日間で3,000〜6,000人である。
玖珠郡玖珠町戸畑の 瀧(たき)神社 の、10月29日から晴天4日間の祭りは 瀧の市 と呼ばれ、玖珠郡の祭りの打ち止めとして賑った。同神社には、 豊臣秀吉 から下付されたと伝える 市高札(いちこうさつ) があるが、箱には文政2年(1819)と墨書してある。高札には、小屋場論、 博奕(ばくち) 大酒、押売 押買、 狼藉(ろうぜき)不作法、 喧嘩(けんか)口論などの禁止が記してある。豊後高田市大字高田の 若宮八幡社 神主家が所蔵する、元禄12年(1699)の御神幸絵巻には市小屋が見える。
市神である 蛭子(えびす)を最初に祭ったのは 大友氏 で、 府内の市 の守護神とした。室町時代には、「和間浜放生会法用場壮厳并仮屋形注文」の付図に夷殿が見える。安心院町下市の蛭子は、市目代高木又五郎が応仁の乱のころに勧請している。三重の市の守護神は16世紀半ばには天神であった。
[染矢 多喜男]
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