シベリア出兵 ( しべりあしゅっぺい)
酷寒の地ユフタの悲劇
大正3年(1914)8月23日、ドイツに対して宣戦が布告され、日本も 第一次世界大戦 に参戦した。8月16日にはドイツの租借地である山東半島の 青島(ちんたお)への出動命令が、久留米の第18師団に下り、23日には動員が完了し、 膠州(こうしゅう)湾へと向かった。しかし明治41年(1908)大分に新設された 歩兵第72連隊 には動員令は出なかった。大分市が戦争と関わりを持つのは、青島が占領されて収容されたドイツ軍の浮虜4,689名のうち141名(将校級13名、準士官以下128名)が大正3年12月に大分市に来て、 赤十字社大分支部 と 第一尋常高等小学校 (現 金池小学校 )に収容され7年8月に千葉県 習志野(ならしの)に移るまで、大分市で生活したことである(金池小学校『開校50周年記念誌』)。
〈ユフタの戦争〉
72連隊に動員令が下ったのは、大正7年8月2日であった。 第12師団 長の指揮下シベリアに出兵が命ぜられた。6年に起こったロシア革命に対する干渉戦争で、日 英 米 仏などの連合国が、孤立したチェコスロバキア軍の救出を名目に出兵した。「大分市民ハ沿道及ビ停車場ニテ、熱誠以テ奉送セリ、又大分停車場ニ於ケル大分県知事以下官民一同、軍隊ノ出発ヲ送」る中に、8月27日大分を出発、31日門司から出港、9月1日ウラジオストークに上陸、ウラジオ及びニコリスクの守備を命じられた。厳寒のシベリアで越冬した72連隊第3大隊の悲報がもたらされたのは、8年2月27日である。本部をニコリスクに置く連隊は沿海州各地の警備に当たっていた。その中で第3大隊( 田中勝輔 大隊長)は鉄道守備作戦に従事していたが、革命軍パルチザンの集結の報を受けた山田四郎第12旅団長より、スクラムスコエ村の敵を攻撃する命令を受け、 香田驍雄 の斥候小隊を派遣した。ついで出動した 田中大隊 は、 ユフタ で敵の主力と遭遇、ニコリスクに残った田所成恭連隊長のもとに次の報が山田旅団長より入った。「田中大隊ヨリ出シタル香田小隊ハ、25日午後4時頃スクラムスコエ付近ニ於イテ約400ノ敵攻撃ヲ受ケ、帰還セル負傷兵4名ノ外、他ハ全部死傷セルモノノ如シ」、さらに「田中大隊ハ25日夜テルノスキヲ発シ、スクラムスコエ方向ニ前進セルモ、其ノ後ノ情況不明ナリ、田中大隊ニ属スル歩兵1小隊及ビ西川砲兵中隊(2門)ハ西方ニ向カイ前進中、テルノスキ東南約10露里付近ニ於イテ敵ノ為攻撃ヲ受ケ、大損害ヲ生ジ、砲車ノ如キモ敵ニ奪取セラレシモノノ如ク、其ノ後ノ情況不明ナリ」と日誌に記されているが、以後の田中大隊の詳報は記載されていない。苦境の中で第72連隊は 黒龍江州(こくりゅうこうしゅう)の第一線に進出して作戦に当たっていたが、8年5月13日第12師団に内地帰還令が下った(歩兵第72連隊「陣中日誌」、第2大隊本部「陣中日誌」大分県護国神社蔵)。7月3日大分に帰還し、8月5日春日浦の 蓬莱(ほうらい)公園 (現 春日公園 )で、シベリア出征の戦病死者394名の 第12師団臨時招魂祭 が、上原勇作参謀総長 大井成元師団長 山田旅団長 田所連隊長、そして田中中佐未亡人ら遺族参列のもとに挙行された(『 大分新聞 』8年8月6日号)。
〈陸軍特別大演習〉
大正9年11月8日から4日間、 二豊(にほう)の原野に繰り広げられた 陸軍特別大演習 と皇太子(昭和天皇)の 巡幸 で県下はわきかえった。大分県を中心に行われたのは初めてで、朝香宮 梨本宮をはじめ、上原参謀総長以下の諸将星の統監部に、南軍に第6、北軍に12、18師団が分かれ、さらに 太刀洗(たちあらい)の航空大隊も参加する大規模な演習が中津平野を中心に展開され、第72連隊は北軍の一翼を担って参加した。11日大演習は終了、豊前善光寺駅より四日市町(宇佐市)を経て、 駅館(やっかん)川にいたる宇佐平野に集結した3万の兵士の閲兵式が、「 颯爽(さっそう)たる東宮殿下馬上の御英姿、県下 未曽有(みぞう)の大盛観」と報じられるように挙行された(『大分新聞』9年11月6 7 12日号)。
〈歩兵第47連隊の移駐〉
陸軍の軍備整備は大正11 12 14年と行われた。特に14年の宇垣軍縮では、シベリア出兵 ユフタの悲劇を含めて、県民の多くの若者が入営し、多数の戦死者を出した歩兵第72連隊が廃隊となった。宇垣軍縮で4個師団、人員3万3,894名の人員が整理され、その一環として「 歩兵第47連隊 (小倉)は大分に移転し、歩兵第72連隊を廃止す」と発表され、 中津連隊区司令部 も廃止され、14年3月の「陸軍常備団隊配備表」(軍令陸第1号)によって、第47連隊は熊本の第6師団 第11旅団の管轄となった。また同年4月の「陸軍管区表」(軍令陸第2号)で、日田郡は 第12師管久留米連隊区(48連隊) に入り、他は 第6師管大分連隊区(47連隊) となった。4月26日、72連隊軍旗奉還式が練兵場で矢賀正之連隊長の下で挙行された。そして5月4日、佐藤信亮連隊長に率いられた歩兵第47連隊の将兵が小倉 北方(きたがた)から移駐した(平松鷹史『郷土部隊奮戦史』大分合同新聞社 昭和52年)。
[吉田 豊治]
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