島原の乱 ( しまばらのらん)

出兵命令権がなかった府内目付

 寛永14(1637) 15年、肥前 島原藩 と同国唐津藩の飛地領である天草の農民が、天草四郎 時貞(ときさだ)(益田時貞)を首領として キリシタン 信仰を旗印に 一揆(いっき)を起こした( 天草の乱 ともいう)。この一揆の背景には大別して2つの背景があった。その一は島原は中世にいて多数のキリシタンを生み出し、キリシタン大名有馬氏によって信仰が保護された地だった。また天草も同様で、キリシタン大名小西 行長(ゆきなが)の所領だった。しかし天草は 関ヶ原の戦い で小西行長が敗れたため、多数のキリシタンは保護者を失い、新領主から 棄教(ききょう)を迫られる苦難遇した。島原では領主有馬 直純(なおずみ)が慶長19年(1614)、日向国延岡に転封のとき、 キリスト教 を棄教しえない家臣は延岡への同道を許さない旨をいい渡した。このため信仰の道を選んで島原に留まり、帰農した者がかなりいた。このような島原に転封してきた 松倉 重政(しげまさ) は、領民に棄教改宗を迫り、残虐な拷問と刑罰を行った。さらに松倉氏は島原に新しく森岳城を築き、城下町を整えた。このため多くの出費を必要としたが、それは過酷な年貢増徴 新税で賄おうとした。加えて同地方は当時凶作が続いていたため、過年分の年貢未進農民がいた。松倉氏はこれらにも拷問や刑罰でのぞんだ。天草地方でも領主寺沢広高の 苛政(かせい)が行われており、両地方の農民は絶望的な日々を送るうちに救世主の出現を期待するようになった。このような状況下で、有馬村の農民と代官の衝突がきっかけとなって島原半島各地の農民が寛永14年10月25日に 蜂起(ほうき)し、27日には島原城を落城寸前にまで追い込み一揆は島原全域に拡大した。これに呼応して27日ころ、天草でも蜂起し富岡城を囲んだが抜けず、12月に有馬氏の旧城原城跡を補修して幕府の指揮する近隣の藩兵12万余と戦い、翌15年2月に全員打死して 終焉(しゅうえん)した。
〈府内目付に指示を仰いだ九州諸藩〉
 一揆に対して自力鎮圧の不可能なことを悟った島原 唐津両藩では、幕府に報告するとともに近隣諸藩への援兵派遣を要請した。しかし、2年前の寛永12年(1635)の武家諸 法度(はっと)(寛永令)で、「領外派兵は理由のいかんを問わず幕府の下知」が必要の旨、定められた直後であるため、九州諸藩は幕府に援兵の要請があった旨の報告をし、指示を仰いだ。また当時、 長崎奉行 が不在だったため、諸藩では九州で唯一の幕府出先機関となった 府内目付 のもとに急使をたてて、島原出兵の指示を求めてきた。府内目付とは、元和9年(1623)、越前宰相といわれた北ノ庄68万石の 松平 忠直(ただなお)( 一伯(いっぱく)) が豊後に配流となったため、幕府は使番 両番の旗本(3千石クラス)2名を忠直監視のため府内に派遣していた役人である。一揆発生当時の府内目付は 牧野伝蔵 と 林丹波守 だったが、副次的に西国大名の動静監視の任を帯びていたとはいえ、諸藩に対して出兵命令を出せる権限はなかったため、「隣国加勢の事は思ひとどまるべし」(「肥前島原記」)と返答し、大坂城代と江戸に急使を立てて指示を仰ぐ以外に方法がなかった。府内目付両人についてみれば、後任の府内目付に多賀左近が着任したため、牧野は佐賀鍋島軍に、林は筑前黒田軍に軍監としてつくことを命じられ 府内藩 から兵を借りて島原に出陣した。
〈郷土諸藩の対応〉
 幕府は11月9日に板倉重政(昌)を討伐の上使に任命するとともに、参勤のため江戸にいた 府内藩主 日根野吉明(ひねのよしあきら) に帰国を命じた。これは配流中の松平一伯の動向を監視させるためだった。また11月8日付けの京都所司代板倉重宗と大坂城代阿部正次が連署の回文が 日出(ひじ) 臼杵 岡 佐伯 森諸藩に回された。回文の内容は、「豊後はかつてキリシタンの多かった地であるため、 転(ころ)びキリシタン が島原の一揆に応援に出向いたり、武具や食糧等送る事のないように領国の国境の監視をせよ」というものだった。島原の乱当時の史料がよく残っている 臼杵藩 の動向をみると、一揆 勃発(ぼっぱつ)の情報を臼杵藩で最初に知ったのは、高田庄横尾村(大分市)の庄屋久八だった。久八はさっそく臼杵の藩庁に報告するとともに、その後に伝わってくる情報を注進した。当時、藩主 稲葉 一通(かずみち) と嫡子 信通(のぶみち) はともに江戸にいたため、信通は11月15日に帰国命令とともに藩の国境の警備を厳重にするよう命じられた。信通は帰国するとさっそく領内の 庄屋 弁指(べんざし)から人質を差し出させて、城内に監禁した。これは転びキリシタンやかくれキリシタンが島原に呼応して一揆を起こさないように先手を打ったものである。11月18日付けでさらに次のような命令を受けた。すなわち、「天草の 吉利支丹(キリシタン)のうち、彼の地を脱出した者がある由である。たぶん舟で方々に逃げたものであろうが、御領分に潜入させないように警戒されたい」という内容だった。一揆が豊後でも発生する危険性があったことを物語る史料である(『大分市史』『大分県史』『岩波講座日本歴史』第9巻ほか)。
[佐藤 満洋]

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