島原藩領 ( しまばらはんりょう)

豊州領

 肥前島原藩6万5,900石の 石高(こくだか)のうち、その42%を占める2万7,600余石は、「 豊州御領 」と呼ばれる 飛地 であり、豊前国宇佐郡 豊後国国東郡の境界付近に展開していた。この境域は、現在の宇佐郡 安心院(あじむ)町 宇佐市(一部) 豊後高田市 東国東郡真玉町(一部)にまたがる地域である。
〈高田役所〉
 豊州領が、島原藩の飛地に組み込まれたのは、 松平 忠房(ただふさ) が寛文9年(1906)6月に、丹波国福知山(京都府)から、2万600石の加増で島原藩に転封となった時点である。飛地領を統括する役所は、「 高田御役所 」と呼ばれ、国東郡高田組内の芝崎村に置かれていた。ここは、これより前、文禄3年(1594)から慶長6年(1601)にかけて、この地を支配した 竹中 重隆(しげたか)( 重利(しげとし)) の城趾といわれ、そののち、一時、 松平 重直(しげなお) の居城にもなった場所であった。高田役所には、島原の本藩から交代で役人が派遣されていた。この役人は「豊州役人」と呼ばれ、代官2人 横目 物書 山奉行などがあり、代官の交代は、執務に支障のないように、交互に交代する仕組みになっていた。
〈領地の構成〉
 飛地領には、宇佐郡内に 山蔵(やまぞう)組 橋津組 長洲(ながす)組の3組があり、それぞれ23か村 17か村 9か村が、また、国東郡内には、高田組24か村 田染(たしぶ)組21か村の合計、5組99か村から成っていた。5組は、細川氏時代の 手永(てなが)制 をほぼ踏襲したものであり、組を統括する 大庄屋 村々の 小庄屋 で支配されていた。大庄屋は、中世期に系譜を持つ土豪層であり、山蔵組の 賀来氏 、橋津組の 橋津氏 、田染組の 河野氏 などをその最たるものとする。一方、小庄屋は、一村一人を原則としたが、事情により、2、3か村の庄屋を兼帯する場合も少なくなかった。
 寛文9年に島原領となった飛地領は、一時、本藩藩主の交代によって、松平氏領から戸田氏領に代わった時代があった。すなわち、寛延3年(1750)2月、 松平 忠祇(ただまさ) の時、 下野(しもつけ)国宇都宮に転封を命ぜられ、代わって宇都宮から戸田 忠盈(ただみつ)が島原に入封、のち25年間、松平氏と戸田氏とが再びもとの藩主に復帰するまで、領主が交代するという二豊では珍しい事態があった。
 高田役所に近い 桂川 河口の高田と、 駅館(やっかん)川 河口の長洲には 会所(かいしょ) が置かれ、米蔵を中心に、飛地領域の管財 会計事務が行われ、「 在町(ざいまち) 」として栄えた。在町な良港として、ここからは、瀬戸内海を通じて、京坂との人の往来、物資の積み出しが行われ、 賑(にぎわ)った。飛地領の 年貢米 などは、最終的にはここに集荷され、大坂に積み送られたが、各代の藩主も、時折、飛地領内巡視や宇佐札 参詣(さんけい)を兼ねて、高田を来訪、高田港 長洲港を利用した。
 城附地(本藩)と飛地領とが、九州の西端と東端とに分かれていたため、飛地領には、本藩に準じながらも、独自の法令が施行された。これは、「豊州村々書付」などとして発令されたが、その中には、豊州領からの諸種の奉公人に関する規定など、特殊な内容の法令が制定された。
 この飛地領では、島原藩本藩で発行された 藩札 の流通が禁止されたため、正金のほかに隣接する 中津藩札 や 杵築藩 の藩札が使用され、隣接諸藩の経済情勢に大きく左右されることが少なくなかった。
 一方、長崎目付を兼ねる島原本藩の文化水準の高さは飛地領の社会にも大きな影響を与え、幕末期には、領内の賀来氏一族の内に、 賀来 惟熊(これたけ) や 賀来 飛霞(ひか) など、多くの科学者の輩出を見た。なかでも、惟熊は安心院の佐田に製鉄のための溶鉱炉を建設し、 大砲 を鋳造したことで知られた。
〈高田の長洲〉
 飛地領のうち、高田組と長洲組内は、 周防灘(すおうなだ)に面した海辺に接しており、幕末期には、 西国郡代 の見立てによる 干拓 新田開発 の主要舞台となった。 呉崎(くれさき) 鹿伏(かぶせ) 猫石 や、 鶴田新田 など、大規模新田開発事業は、有明海北岸部の干拓事業とともに、西日本では、屈指の事業となった。駅館川以東の現在の美田地帯は、この干拓事業によって成ったものである。この新田地帯を 潤(うるお)すため、 広瀬井手 が開さくされたことも、特筆される。
 飛地領域は、旧 封戸(ふべ)郷 をはじめ、 宇佐神宮 の神領であったため、高田役所は、近世期を通じて、宇佐社の祭礼などの管理 運営に強く干与する権限を与えられていた。 特に同社の 御田植(おたうえ)祭 御秡会 などには、 槍(やり)などの儀器を貸与するなど、主要な役目を果たした。
 明治4年(1871)7月 廃藩置県 によって島原県となり、のち 日田県 へ移管され、10月、豊後域は大分県に、宇佐郡域は 小倉県 となったが、明治9年、豊州領のすべてが、大分県となった。
[後藤 重巳]

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