下毛荘 ( しもつみけのしょう)

宇佐宮常見名田の荘園化

〈所在〉
 下毛郡内に散在する開発 名田(みょうでん)を集めて立荘した荘園。
〈成立〉
 「 宇佐宮 神領大鏡(しんりょうおおかがみ) 」(「 到津(いとうづ)文書 」)によると、国々に散在する 常見(つねみ)名田 の中に、「下毛郡  田数700丁(但、国半不輸の時)、宮召物 加地子(かじし) 起請田(きしょうでん)177町4反30、用作1丁8反」がある。常見名田の多くは治開田であるが、一般領主が寄進したものも少々ある。半不輸の地は毎年、国の 検田使(けんでんし)が入部して検田し、起請田の場合は 官物(かんもつ)を町別 准絹 2疋、他は准絹8疋を 国衙(こくが) に納めるだけで、一切他役を 停止(ちょうじ)して、専ら神役を 勤仕(こんじ)することになっていた。 宇佐宮 御炊殿(おいどの)の一院は、古くより、破壊に臨むごとに国役で勤造してきたところ、国衙が事を 左右(そう)に寄せて40箇年の間造営しなかったので破壊に及んだ。このため、安元元年(1175)閏9月、 後白河院(ごしらかわいん) 庁(のちょう)の 下文(くだしぶみ)によって、豊前国の常見名田等を永く不輸の神領として、かの一院を勤造することになった。まもなく 仮殿(かりどの)が造られ、遷宮を行って、かの一院を勤造し遷宮の段になって、 国司(こくし) 藤原成光(ふじわらのなりみつ) は 院宣(いんぜん)をえて、この荘園を停廃しようとした。治承2年(1178)重ねて国司の妨げを停止し、不輸の神領となす院庁下文並び大府宣を得た。文治のころにも、永く不輸の神領であるという 官宣旨(かんせんじ)を得た。こうして郡名を冠する荘園が成立した。
〈構造〉
 「下毛庄検田目録断簡」(「 永弘文書 」)によると、承久3年(1221)ころ、現作田364町から不輸租の除田118町(仏神事田76町余、金堂免20町、 猪山(いのやま)社 免3町、 大貞社 免10町余、 大根河(おおねがわ)社 免10町、 妻垣(つまがき)社免5町、 大尾社 免6町)を差し引いた240町余が領家宇佐宮の御炊殿造営料であったと考えられる。仁治2年(1241)の散田帳(「到津文書」)によると、246の名田があったという。確認できる名田は本永久 今永久 北松永 本稲重 成枝 池永 稲富 稲男 稲豊利 弥稲男 成元 今行 本市丸 末久市丸 重光市丸 今永 自見(じみ) 得永 秣糸永(まくさいとなが) 秣乙王丸 秋真 岐浦 田口浦 金吉の25名である。なお、田口浦は 諌山(いさやま)郷 となっているが下毛荘と表現されることもあった(「 田口文書 」)。本家は関白 近衛(このえ)家、荘官には 荘司(しょうじ) 田所(たどころ)の名称が確認される。
〈展開〉
 秣糸永名や今永名に関する史料には「下毛庄封」と表現されたものがある(「 益永文書 」「永弘文書」)。 大家(おおえ) 野仲 両郷が 封田(ふうでん)であったから、両郷内の治開田も封田に准じた扱いをうけたのであろうか。秣糸永名は 益永氏 の始祖 権(ごんの) 大宮司(だいぐうじ) 相忠() より5代目権大宮司 宇佐 昌職(まさもと) の 所領(しょりょう)で、子の権大宮司 昌隆(まさたか) が長寛3年(1165)死去したのち、 通昌(みちまさ) 昌重(まさしげ) 昌幸(まさ) と 糸永氏 を称し、34か年領知した。その内、通昌は養和元年(1181)から正治2年(1200)まで20か年知行した。通昌のあとを昌幸は 栄重(ひでしげ) (妹の子)に知行させたが、権擬大宮司 忠輔(ただすけ) が買い取った。その後忠輔の妻の所領と称して、大宮司 公仲(きみなか) と 広経(ひろつね) が5年間 押領(おうりょう)していたが、承久2年(1220)北条 義時(よしとき)の下知状をもって、忠輔へ領知せしめた。その後、 承久(じょうきゅう)の乱 に乗じて、糸永一族の 昌直(まさなお) の子 昌秀(まさひで) が 舅(しゅうと)栄重 姉 聟(むこ) 神順() 稲男小十郎 政家(まさいえ) らと組んで、押領し田30余町を苅取り、 数多(あまた)の在家を 追捕(ついぶ)したので、忠輔の子 嗣輔(つぐすけ) ( 宇佐宮 政所惣検校(まんどころそうけんぎょう) )は、これを幕府に訴えて、昌秀の非論を停止し、 糸永二郎 昌重(まさしげ) の非論をも却ける関東下知状を得た。今永名は宇佐宮 擬祝(ぎほうり) 大神宮守(おおがのみやもり) が、建治3年(1277)、兄の御前 権検校(ごんのけんぎょう) 宮仁 へ田地2町3反と今永1町2反 今永本百姓薗屋敷を宮守分として残し、残る田畠屋敷と自見塩屋以下を分与して、 今自見(いまじみ) と 本自見(ほんじみ) に分裂した様子である。鎌倉期はこのように名田の 錯綜(さくそう)分化がすすむ。
〈崩壊〉
 建治2年(1276)、御炊殿造替が決定し、先例によって、本家の下知に従って下毛荘以下の造畢料荘に平均に催促したが、料荘の 名主(みょうしゅ)等は、事を左右に寄せて難渋したため、弘安元年(1278)、重ねて不輸 別納を嫌わず 定田(じょうでん) 免田(めんでん)を論ぜず平均に催促せしめている。これと関連するものか、田所が報告した弘安6年の「下毛庄得永以下名々検注坪付」(「永弘文書」)では現作17町4反余、損田6町3反余、合計23町7反余のうち得田6町9反、除田(門田2町、若宮田1町、桧物給1町等)5町6段を差し引くと定得は1町となっており、13世紀末には、ほとんど荘名が使われなくなっている。下毛荘の名称の最後は、鎌倉最末期の嘉暦3年(1328)、大家郷 久用名(ひさもちみょう)などの証文紛失につき、宇佐宮神官 社僧 近隣諸人の証判を請うた 重頼(しげより) (池永一族ヵ)に対し、下毛荘田所「幸久」が 薦(こも)社 司重次や大家郷司 萱津(かやつ)又三郎 久明(ひさあき) らとともに証判を加えているものである(「 野仲文書 」)。
 参考文献 『中津市史』
[竹本 弘文]

[し]メニューに戻る