下原古墳 ( しもばるこふん)
安岐城跡隅櫓の下に前方後円墳
〈所在地および立地〉
東国東郡 安岐(あき)町大字下原字本丸にある初期の 前方後円墳 である。 安岐城 跡は、大分空港の南西およそ2qに位置する中世〜近世初頭におよぶ城郭で、文禄3年(1594)に秀吉の臣 熊谷 直陳(なおのぶ) が大規模な築造を行った後、慶長5年(1600)には黒田勢に攻められ落城、破却された。一帯は伊予 灘(なだ)に面した 海岸段丘 をなし、南は 安岐川 の河口、北側には小谷が入り込んで海上からは独立丘的景観をもっている。 隅櫓(すみやぐら)は北東の隅に古墳をほぼ完全に削平して築かれていた。
下原古墳を取り巻く歴史的環境は実はほとんど分かっていない。安岐川流域一帯の弥生〜古墳時代遺跡の調査例がほとんどないからである。古墳時代後期になってようやく首長墓と認めうる古墳が出現する。そのうちのひとつ馬場の 築山古墳 は、人物 鳥 馬 家屋などをかたどった小形の形象 埴輪(はにわ) をもつ古墳で、石室の構造など詳しいことは分かっていないが、出土品として 須恵器(すえき) の大形器台と 壷(つぼ)が保存されている。6世紀後半の古墳である。また塩屋にある 塚山古墳 は明治末期ごろに発掘され現在も開口している。横長プランの単室構造の珍しい石室をもち、刀や 短甲(たんこう) 円筒 埴輪(はにわ)などが出土したと伝える。
〈古式小形の前方後円墳〉
下原古墳は度重なる安岐城の造営によってほとんど平らに削平を受け、後円部古裾の3分の2、西くびれ部と前方部の一部及び石室の下半分を遺存するのみで、墳丘と 周濠(しゅうごう) の大半は既に失われていた。辛うじて形を止どめていた部分から、後円部径15m、全長25m未満の小形の前方後円墳と判断された。石室が古墳の主軸と一致するとすれば、くびれ部の幅は5m強、前方部先端の幅は後円部径にほぼ等しい15mほどとなる。周濠の幅は約5mである。主軸の方位はn−31度−e、海上から側面が望める位置をとっている。なお、西側くびれ部に隣接して 土壙墓(どこうぼ) を主体部にもつ1辺4mほどの大きさの 方形周溝墓 が検出されている。
主体部の 竪穴(たてあな)式石室 は、地山に掘り込まれた5.7×3mの大きさの墓壙の中に大形の 礫(れき)で構築され、内部に組み合わせ式の 木棺(もっかん) を内蔵する。もっと分かりやすく言うならば、木棺を安置した後に墓壙の中に礫を 充填(じゅうてん)し棺を覆うのである。木棺の構造は木口板を側板で挟む形をとる。
出土遺物は、主体部及び周濠に流れ込んだ土砂に交じって発見された土器類のみである。器形は手アブリ形 器台 二重口縁壷 壷 ミニチュア土器などがある。これらの土器は大分ではほとんど出土例のない外来系統のもので、その位置付けには苦慮するところであるが、 土師器(はじき) の最も古い段階に置くことができよう。
ところで、下原古墳のような古墳時代のごく初期に出現する小形の前方後円墳の取り扱いについては、名称あるいはその定義にまださまざまの論議が行われている。しかし、下原古墳を東九州における古式古墳の典型とされる宇佐市 赤塚古墳 、続く 免ヶ平(めんがひら)古墳 などと比較するならば、おのずからその違いは明白である。すなわち「定形化した前方後円古墳」のもつ諸内容を満たすことは当然であるが、なによりもその大きさが重要なポイントでなのである。なぜなら、そこに葬られる人物はあくまで地方における ヤマト朝廷 の威光の体現者なのであるから。その意味で下原古墳は、佐賀県赤坂古墳 同双水柴山古墳 福岡県津古生掛古墳などとともに定形化する以前の前方後円墳のひとつとみたい。
[真野 和夫]
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