下山古墳 ( しもやまこふん)
石甲・家形石棺・鉄・
〈 穂門(ほと)郷にあったのか?〉
下山古墳は臼杵市大字諏訪の 熊崎川 をみおろす標高66mの丘陵上に築かれた5世紀中ごろの 前方後円墳 である。 臼塚古墳 と同じ 石甲(せっこう) をもつ古墳として知られる。
『 豊後国風土記 』に郡の南に位置すると記載された 穂門郷 は、津久見市の 保戸島(ほとじま) という島名に名残を留めているが、古墳の存在は知られていない。古墳群の所在地からみると、 佐尉(さい)郷 や 佐加(さか)郷 丹生(にゅう)郷 の3か所以外にまとまった分布のみられるところとしては、臼塚古墳や下山古墳の所在する臼杵市の熊崎川下流域をおいてほかにない。したがって、他の3郷の場合と同じようにこの古墳群と穂門郷とを結びつけたいところであるが、裏付けとなる直接的資料に乏しいためこれまで言及されたことはほとんどない。
この地方の弥生時代の状況についてはまだあまりはっきりしないが、臼塚古墳の南西約1.5qほどのところにある 坊主山遺跡 から 銅鉾(どうほこ) 7本が、また下山古墳から至近距離の位置にある山丘では 銅戈(どうか) が出土しており、大在や坂ノ市周辺の状況ときわめてよく似ている。このことは、それらの地区が弥生後期ごろに北九州となんらかの交渉ルートをもっていたこと、ないしはその 担(にな)い手が存在したことを示しており、したがって 海部(あまべ)の民の最大の特徴ともいうべき海洋従事者としての伝統がそこまでさかのぼりうることを示唆している。臼杵市の市街地は、 臼杵川 末広川 熊崎川という3河川の合流によってできた河口の 沖積地(ちゅうせきち) にある。したがって、古墳時代ごろには河口は潟をなす深い入江であったと想像される。この地域の古墳群は熊崎川流域に集中し、前方後円墳の臼塚古墳および下山古墳を盟主とする11基からなる。
〈畿内色の濃い構造〉
臼塚古墳に続いて、熊崎川の河口に近い諏訪の小高い丘陵上に築かれたのが下山古墳である。標高66m、東西方向の尾根筋を巧みに利用した墳丘は、西側先端に後円部を配し、前方部先端で丘陵を切断している。見掛け上3段築成であるが、前方部の丘陵切断は1段目の基底まで達していない。つまり前方部先端は見掛け上2段目から立ち上がることになる。この1段目の後円部尾根筋方向に6×8mほどの小さい張り出しがある。この方向から見上げる後円部は驚くほど高い。墳丘の規模は全長68m、後円部径46mである。主体部の 家形 石棺(せっかん) は、厚さ20pほどの 凝灰岩(ぎょうかいがん) 板石を 仕口(しくち)を作って組み合わせた精巧な造りで、蓋石 小口(こぐち)が棟に向かう斜面を構成せずに棟を頂点とする 隅丸(すみまる)の形態をとるなど、 長持形石棺 との共通点が多い。また、わずかに湾曲した棟の片側には棟飾りの小突起を造りだし、表面には 茅葺(かやぶ)き屋根の押し縁の表現とみられる浅いレリーフがある。縄掛け突起は蓋石小口片側にのみみられ、もう一方は折れたのであろうか突起はなくて奥まったところに段がしつらえてある。側壁には転倒防止用の支えがつく。 石棺 の大きさは、底石を含めて総高■p、長さ(側壁)■p、幅■pある。石棺内部からは2体の人骨のほか、 製(ぼうせい)神獣鏡 貝輪 璧玉(へきぎょく)製 管玉(くだたま) 毛抜形 鉄器 多数の 刀 剣 が発見され、棺外には 鉄 (てつてい) が副葬されていた。鉄 には並行して2か所 紐(ひも)跡が残っており、簾状に連 綴(てつ)されていたことが伺われる。
下山古墳の石製品は、くびれ部に近い前方部頂部稜線付近に、破損して草 摺(ずり)部分だけとなったものが1基残っている。ここでも太い円柱上に丸彫りされており、臼塚古墳のものと同タイプの短甲形であったと推定されている。また、 円筒 埴輪(はにわ) の存在が知られている。
下山古墳の後円部造出しから至近距離に小規模な墳墓があるほか、周辺の古墳としては 神下山古墳 が知られている。直径30mほどの円墳で、主体部は 箱式石棺 と家形石棺である。このうち後者が発掘されて内容が分かっている。家形石棺は棟を突出させてそこに鑽孔をうがち縄掛けとした特異なもので、大分市 世利門古墳 と類似している。内部からは 人骨 1体のほか 勾玉(まがたま) 剣 鉾(ほこ) 鉄鏃(てつぞく) 短甲(たんこう) などが出土したと伝えられる。
臼塚古墳とともに 短甲形石製品 を有する下山古墳は、5世紀の前半から中葉にかかる時期の古墳として外形ならびに主体部の構造 遺物など様々の点においてその典型とすべき内容をもっている。とりわけ主体部の構造が箱式石棺をもつ豊後海部の他の首長墓と異なり濃厚な畿内色を漂わせている点や、古墳の築造期間が非常に短いことなどに注目すべきである。これらはすべて「 海部 」としての被葬者の性格や生前の広範な活動の反映であり、さらには5世紀という時代のまさに特色と言えるものだろう。
[真野 和夫]
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