新大分空港 ( しんおおいたくうこう)

仏の里に空の玄関

〈大分海軍航空隊〉
 昭和13年(1938)12月、 大分海軍航空隊 として東大分村(大分市)の 大分川 と 裏川 の三角州に開隊、20年8月15日には5航艦司令長官の 宇垣 纒(まとめ) 中将直率の 特攻隊 を沖縄戦線へ送り出した海軍の基地であった。戦後は農地部分は返還されたが、滑走路など主要部分は独立後も 駐留軍 の連絡用として使用された。特に 朝鮮戦争 の 勃発(ぼっぱつ)で、別府に空挺部隊が駐屯することになり、その演習地として使われた。26年7月から開始された落下傘の降下訓練は地元住民との摩擦も生じたが、31年7月、第508空挺部隊の米国引揚げで、飛行場は日本へ返還された。
〈旧大分空港〉
 32年3月、返還された旧航空隊の滑走路を利用して、ローカル空港として開港した。滑走路延長1,200m、着陸帯幅80mで、主要地方空港として理想にはるかに遠い状態であった。しかし年間利用客は32年開設以来40年までに約9倍、特に35年以来年率48%のハイペースで、40年度13万4,907人が利用した。そのため便数も次第に増加し、機種もフレンドF27からYS11へと定員の多い機種に変えられていった。このような時に大きな惨事が起こった。39年2月27日、鹿児島から来た 富士航空機 が着陸に失敗、滑走路東側の裏川の堤防に激突して炎上、乗員5人、乗客37人のうち、20人が死亡、22人が重傷という戦後の民間航空機事故として、27年の日航もく星号、33年の全日空DC3下田沖墜落につぐ3番目の大きな事故が起こった。操縦ミスによるか、機器の故障による不可抗力かで争われた裁判は、49年に過失責任は問えず無罪の判決で決着した(『大分県警察史』第2巻 昭和60年)。
 この事故とは別に、大分空港の移転拡張は36年から検討が開始されていた。大分 別府に近いという立地条件はあるが、二つの川にはさまれているため、YS11など離着陸性能のすぐれた飛行機をもってしても安全100%の確保は難しく、また将来の大型機時代に対応できる滑走路の拡張の余地がない。さらに有視界飛行用である現空港のスペースでは全天候飛行を可能にする保安計器の設置も困難であり、市街地や新産都計画などに伴い、現地での用地拡張は難しい状況であった。37年から県は臨海 内陸部に候補地を求め、運輸省とも折衝に入り、39年には 新産業都市 建設基本計画にもとり入れ、40年8月、「大分県新空港建設促進協議会」が発足した。
〈新大分空港建設〉
 大型化、高速化などの航空情勢の進展、さらにローカル空港へのジェット機就航などの予想から、それを受け入れる地方空港の拡張は急務になっていた。しかも航空機事故なども国の整備計画を速めることになった。県は移転地区の選定に当たって、航空の安全性、建設費などの経済的条件、交通の利便などの経済的立地条件などを基本に、運輸省航空局、九州大学、気象関係機関など専門家により、大野郡千歳、大分市岡、速見郡日出、杵築市住吉海岸、北海部郡佐賀関、大分市野田、東国東郡安岐 武蔵の7地区を候補地にあげ調査検討を行った。現地調査、試験飛行などの結果、交通の不便はあるが、各条件を満たしている安岐 武蔵地区が41年6月、運輸省航空局で移転候補地と決まり、42年11月に新空港を正式決定した。これを受けて、県は43年2月5日 木下 郁(かおる) 知事 の現地説明会と地元への協力要請、同年3月公聴会などを経て、同年3月23日運輸省より公共用飛行場設置が公示された。県は新産都建設局の中に空港建設課を設置、43年4月22日、知事を本部長とする新大分空港建設本部を設置し、建設に入った。滑走路部分が中心になる埋立て区域の漁業補償、ターミナル予定地などの内陸部補償さらに新空港への交通体系の整備も含めて、新空港の建設にとりかかり、45年3月からようやく海上部分の用地造成に着工、つづいて陸上部分にも入り、46年10月16日開港、大分県にはじめてジェット機が乗り入れた。
〈新大分空港〉
 滑走路2,000mの海上空港として開港した新大分空港は、46年に旅客54万人、貨物量884tであったものが 、61年には105万人、貨物量8,992tと著しい伸びを示している。増加する需要に対応するための使用機種の大型化や国際線開設も併せ、54年7月に滑走路を北側へ500m延長する公示に着手、57年12月に供用開始され、58年1月から南側へ500m延長、3,000m滑走路が63年10月供用を開始、ターミナルビルも増築が行われた。大分空港の国内航空路線は東京 大阪 名古屋 鹿児島便の他、60年11月から沖縄便が就航、さらに広島 松山の近隣都市間を結ぶ コミューター航空 も62年4月より就航している。また将来国際貨客空港をめざす空港として大分市と空港間の時間短縮のためのバイパスの建設も進められ、 ホーバー の大型化も実現した(大分県『県政のあゆみ』)。
[吉田 豊治]

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