心学 ( しんがく)

日常生活を事例に教化

 心学は、江戸時代の中期、石田 梅岩(ばいがん)によってはじめられた人生哲学である。この心学は「心に反省しつつ、身に践み行う」という理念を具現する社会教化運動を伴った。当時、農村が窮乏化し、また、町人の経済活動が活発になって実力を蓄えることなどによって、幕藩体制の動揺が激しくなると、府内藩 岡藩 日出(ひじ)藩では立て直しの一策として、庶民に善良な風俗を奨励することを重視することになった。府内 岡両藩では、こうした動向をふまえて、 手島堵庵(てじまとあん) 門下の逸材 中沢 道二(どうに) が江戸に開いた心学講舎 参前舎(さんぜんしゃ) に藩士を派遣して心学を学ばせるとともに、自藩に 心学舎 を開設して、心学修学の藩士を中心に、士庶の教化活動を積極的に行うようになった。
〈二豊の心学〉
 二豊の心学教化は、江戸幕末、 中村 徳水(とくすい) の心学講話に始まる。徳水は石田梅岩−手島堵庵−中沢道二の学統を継承し、その活発な教化活動は中国 四国 九州に及んだ。嘉永4年(1851)、 府内藩 の儒医 堀 恕庵(じょあん) は徳水を 府内 (大分市)に招いて心学講話を行わせた。このとき、同人は府内 藩政改革 にもあずかって力があったという。徳水は、嘉永6年にも竹田から府内に巡教したが、このとき、恕庵は藩士に聴講希望者を募り、中島(大分市)の御茶屋で講演会を開催、藩主 松平 近説(ちかせつ) も 簾中(れんちゅう)から聴聞している。
つづいて、藩は 光西寺(こうさいじ) に町人を集めて、8昼夜、徳水による講演会を開催している。慶応年間(1865〜68)、江戸参前舎で修学していた藩士 岩下 与兵衛(よへえ) が心学道話に巧みであったので、 遊焉館(ゆうえんかん) において、月3回、口演を行わせて藩士に聴講させた。のちには、藩校経費を支出して、 浄安寺(じょうあんじ) 東上市(ひがしかみいち)町 夷(えびす)町などで講演会を催し、士庶の別なく聴講させた(『藩政時代の教育』『大分市史』昭和30年刊)。また、同年間には、教諭所として 一貫(いっかん)舎 を設置し、心学講話を本格的に行わせている。一貫舎の経費は遊焉館の学費から支出した。 岡藩 では、嘉永2年に藩士 服部小平太(はっとりこへいた) 、つづいて、 阿南与平次(あなんよへいじ) 広瀬 定吉(さだきち) 田代 敬策(けいさく) らを参前舎に入門させて心学の研修をさせた。同5年には、大坂岡藩蔵屋敷において、中村徳水を招へいして講演会を行っている。嘉永4 5 6年には同人を岡藩に招き、各地で講話を行わせた。城下 正覚寺(しょうかくじ) における講話会には士庶300人余りが集まり、また、 入田(にゅうた) 次倉(つぎくら) 原尻(はらじり) 市用(いちもち) 米納(よない) 湯原(ゆのはる)などの講席は盛況であったという。藩士の中には心学を白眼視する者もあったが、藩主 中川 久昭(ひさあき) が 大庄屋 に触れを出し、農民の聴講を奨励したこと、江戸藩邸に徳水を招へいして講席を設けたこともあって藩内の心学教化が進んだ。勤倹の風俗を勧め、捨子 間引きの悪習を矯することをねらったという。
綿田(わただ)組大庄屋の大久保氏は、 寺子屋 において教本「児童教訓早心学」を用いて、農村子弟に心学教化を行い、また、農民に対しても、教化のために出された教諭書を平易に解説したと推定される。教諭書の解説はつぎのように述べている。「家内あまたある、そのうちには人の道をはずれ、気ままわがままの者かならずあるものじゃ、その不埒をとがめ、きびしくいましめ叱るは父の道と申して親父の役じゃ、(中略)母はよく解ききかせ、道を教へ、腹立たぬよう、父に無理なき事をよく教へ、家に出入の混雑これなきよう、やわらかに治むるが母の道と申して、母の役前じゃ」と具体的に家庭生活における父母の役割を説明している(『大分県教育百年史』)。このように、心学は、これまでの儒学が経典の素読や講義を中心としたのに対し、平易で生活に即していること、弟子入りの手続きなどが不要であったため、武士はもちろん、町人 農民にも容易に受け入れられた。安政2年(1855)、 慶順(けいじゅん)川(竹田市)に教諭所が設立されて 広徳(こうとく)舎 と命名された。
舎内には心学の始祖石田梅岩の肖像を掲げ、落成式には、広島から栗原 如心(にょしん)を招いて記念講演会が開催された。広徳舎の講師には、京都 明倫(めいりん)舎から講師の称号を授与された藩士の 鴨宮右衛門(かもみやうえもん) 宗六翁(そうりくおう) 阿南与平次 佐藤 龍次(たつぐ) 後藤 友三郎(ともさぶろう) らが任命されている。明治6年、心学が 神道 に改変され、学制の整備や同10年、 西南戦争 に当たって広徳舎が焼失したこともあって不振となった。のち、同好者による集会となり、明治25年には全く廃絶した(北村清士「岡藩における心学」『大分県地方史』第42号)。
日出藩 では、藩主 木下 俊程(としのり) が領民に対して人道を弁えさせるために、町在中に「鳩翁道話」の書を配布、毎月1回、町年寄 里正(りせい)の家宅に庶民を集めて道話の講釈をさせている(『大分県人物志』)。これらの藩で心学が奨励されたのは、人倫具現のうえからは、 朱子学 も心学も同様であるという藩主の認識があったからであると考えられる。このような心学奨励の中で、森藩では、弘化の末年から 陽明心学 に類似する学問が行われ、一時、藩内を 風靡(ふうび)する勢いを示した。このため、 藩校 脩身(しゅうしん)舎 の教育が衰微するありさまとなり、藩主が聖学(朱子学)を奉じることにより、その拡大が押えられた(『藩政時代の教育』)。
 参考文献 鹿毛基生『大分県の教育史』
[芦刈 政治]

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