真宗法難事件 ( しんしゅうほうなんじけん)
帯解きの秘事による浄土真宗の禁制・弾圧
国東半島に 浄土真宗 の禁制事件が起こったのは寛文4年(1664)のことである。その発端は 杵築藩 内の 今在家(いまざいけ)村(国東町)の 伝照寺(でんしょうじ) (府内 光西寺(こうさいじ) 末)で 秘事法門(ひじほうもん)が発生したことによる。この法門に入る者、親子夫婦といえども秘事とし、毎月数回の 法会(ほうえ)は讃仏に始まり、宵のうちは酒盛りなどをし、夜がふけ静まると屏風を立て、その両側に男女が別れ、燈火を消し、婦人は帯を解いて屏風に掛ける。男は手さぐりで帯を引くが、引き当てた男女は無量寿仏の仏縁によるものと、親子夫婦兄妹の別なく邪淫をなす。帯解きの秘事ともいう。
〈庄屋と住持による新法〉
豊後高田に生まれた是永六雅は、天保4年(1833)の著『 追遠拾遺 』で別の記録によると本件は次のようでもあるという。今在家村庄屋の子吉左衛門は、美しい妹と密通、妹はすでにみごもり、どうにもならない。 旦那寺(だんなでら)の 伝正寺(でんしょうじ) 住持に相談して妙案を作る。本尊 阿弥陀(あみだ)の内陣に屏風を引立て、その中に入った女は帯を解いて屏風に掛けて置く。 参詣(さんけい)の男は帯を探して引き、弥陀の結縁によるものと親子兄弟の別なく夫婦となる。これで吉左衛門も妹と夫婦になるが、欲に強い者共に受け、杵築領内にこの風潮が広まって行ったという。
〈杵築藩の真宗法度〉
三浦 梅園(ばいえん) 56歳の安永7年(1778)の著『 帰山録 』で本件を紹介、村の真言宗の僧、仏法を乱し風俗を誤るを見るに忍びず藩主に訴えたという。『追遠拾遺』では今在家村の 興導寺(こうどうじ) 西之坊の慈林と村内の権兵衛が、藩の寺社奉行に訴え出たという。いずれにせよ庄屋九左衛門夫婦、その子吉左衛門夫婦は死罪、関係者は厳罰に、伝正寺は破却、住持は追放となる。 杵築藩主 松平 直次(なおつぐ)( 英親(ひでちか)) は、参加者がすべて真宗門徒であったことから真宗 法度(はっと)を発令、禅 真言 天台 浄土のいずれかの宗旨に改宗するよう厳命、念仏を禁止した。家臣に改宗を強要、さらに一般民衆にも改宗を命令。そのため藩内では真宗寺院を除き、全真宗門徒が改宗したという。ここに真宗法難事件は始まった。翌寛文5年7月、杵築藩は「諸宗法式を乱すべからず。一宗の法式を知らぬ 僧侶(そうりょ)、寺院の住持たるべからず」と定めている。
〈真宗法難の拡大〉
真宗に対する弾圧は杵築藩私領にとどまらず、国東郡の西方にも波及した。西国東地域は天領で、杵築藩預かり所であったが、ここでも 庄屋 から率先して改宗することを命令。しかし信仰の篤い青年庄屋2人は、身命を賭して立ち上がった。 陽平(ひなたびら)村 (豊後高田市 田染(たしぶ))庄屋の 後藤四郎右衛門 と上野村(同前)庄屋の 安藤助三郎 は「真宗法度は天下一律の規定でなく、杵築領内のみの真宗禁制であり承認できない、秘事法門は真宗の正統教義とは一切関係ない」ことを論じ、改宗に応じないために、2人は寛文4年9月に処刑された。続いて同じ田染地区で「親と子の葬儀を真宗の式で行った。」ということで、3人の百姓( 横峯の弥市 池部の善平衛 陽平の喜助 )も斬首の刑に処せられた。このような杵築藩の弾圧は成功し、国東半島の浄土真宗は壊減状態になった。
〈明蓮寺竹翁の復宗運動〉
こうした事態を憂慮した中津の 明蓮寺(みょうれんじ) 住職 竹翁(ちくおう) は、法を守って命を捨てるべき僧が傍観、法を捨てて身を守るべき百姓が信仰の純粋を死守した現実を見て、僧として 慙愧(ざんき)の念にたえぬ、殉教者の清純な死を生かすため、身骨を砕いて真宗法難を解決しようと決意。高田玉津の 光円寺(こうえんじ) を作戦本部に、真玉臼野の 光徳寺(こうとくじ) の住職で本件を克明にまとめた『 法敵誌 』の著者雲山を始めとする僧侶を率いて藩主に直訴。寛文4年冬には上洛、本山西本願寺の老中に実情を訴え、本山の役人を動かし 斡旋(あっせん)を依頼、その結果、邪法を企てる者以外の真宗復帰を認める旨の約束をとりつけた。解決したかにみえたが、郡奉行などは以前にも増して改宗を強行、一度は真宗に帰参した者から絵像や 名号(みょうごう)を取り返した地域も発生。そのため竹翁は再び奔走し、郡奉行 公領代官の違約を責め、一方、本山へ働き掛けて、門主からの口上を藩に伝達することに成功し、寛文10年になって真宗への復宗がやっと実現した。この年5月、杵築藩は「真宗に立帰った門徒は男女寄り集らず、寺号のある寺を檀那とする」よう郷中に申渡している。しかし、その後も一部地域で真宗法度の解除をめぐる争いが発生、光徳寺雲山は解決に奔走、発生以来17年の後の延宝9年(1681)に真宗法難事件は解決した。
〈京都大谷墓地の殉教碑〉
『法敵誌』には「本願寺14世寂如上人は死罪5人をふびんに思い、大谷御廟の東方に埋め墓を下賜」されたというが現存。豊後高田市上野には安藤助四郎の素朴な墓があり、真宗法難の歴史を物語っている。
参考文献 日浦保徳『九州真宗と四日市別院』
[後藤 正二]
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