真勝寺事件 ( しんしょうじじけん)

大岡越前守も裁き切れなかった別院騒動

 18世紀の前半に発生した真勝寺事件(別院騒動)は九州真宗史上最大の事件。真勝寺は四日市の豪族 渡辺 統綱(むねつな) の出家に始まるというが、元和9年(1623)大谷本願寺の宣如上人は3世正願に寺号 木仏 親鸞(しんらん)聖人御影を下附、ここに九州東本願寺派の中心寺院真勝寺が成立。
〈別院騒動〉
 元文2年(1737)9世 宗順 と 塔頭(たっちゅう)の 勝福寺(しょうふくじ) 了山(りょうざん) の間に寺院運営をめぐって意見が対立。原因は了山の先祖が真勝寺発展の恩人で、塔頭の権威が本寺を圧していたことにあった模様。若い宗順は学問はせず身持ち悪く、殺生をする。遂に四日市の 万屋(よろずや) も用達を停止、宗順は高利を利用。そのため塔頭 万屋 庄屋 など宗順に意見、 中原 別府(びゅう) の門徒や大根川の 西賢寺(さいけんじ) などは宗順の不行跡について願書を上申。やがて対立は真勝寺の末寺にも波及、住持宗順派と塔頭了山派が生まれて来た。了山派は古城の 正行寺 新発知を真勝寺に養子 相続させることを本山へ嘆願。本山はこれを受け宗順に謹慎を申付け、寺籍は本山 拘(かかえ)寺とする。宗順は激怒、不行跡 驕奢(きょうしゃ)は増長、度々の本山の調整も不調。寛保2年(1742)本山は最後の決断として、宗順に隠居申付け、寺は3か寺の輪番制(交替留守居役)とする。鳥越の 光勝寺(こうしょうじ) 、大根川の西賢寺、南敷田の 正法寺 が輪番を勤めることになる。
〈宗順派の真勝寺乱入〉
 これに対し宗順は翌年正月の 宗門改め の時、豊前西派の 触頭(ふれがしら)(寺社奉行や本山の命を末寺に通達、統轄する機関)中津の 明蓮寺(みょうれんじ) に出頭、真勝寺を末寺11か寺と共に西本願寺派へ転派する。さらに外戚の実力者 田代兵治郎 、西派の 教覚寺(きょうかくじ)(森山)恵明 、宗順派末寺と協議、門徒数百人をひきつれて了山派の真勝寺に乱入。西派になった真勝寺を正統者宗順に返上するよう迫る。『 四日市村年代記 』はこの姿を「御堂中は 修羅(しゅら)道となり、輪番の僧は半死半生の体で門外へ押出」されたと記している。攻防は続くが、西派触頭の明蓮寺 長久寺(ちょうきゅうじ) 、東派触頭の水崎の 万徳寺(まんとくじ) は四日市の 市屋義七宅 に集合、 禍(わざわい)が宗門に及ぶ恐れありと両派を説得、5日後に一応鎮静化した。
〈大岡越前守の裁許〉
 しかし、この始末におさまらないのは了山派の大根川西賢寺 法音 である。寛保3年(1743) 閏(うるう)4月、法音は本山使僧を同伴し幕府に直訴。時の寺社奉行は大岡越前守忠相、事の重大性に驚き、この年5月に続いて9月にも教覚寺など西派21か寺、東派寺院 輪番などを江戸に呼び出し吟味。12月29日の裁許は厳しく、宗順は八丈島へ流罪、教覚寺恵明は鬼界島へ流罪、田代兵治郎は入牢、真勝寺の寺籍 山林 田畑は公儀召上、寺中家財諸道具は村預かりとする。西派に厳しい裁許であった。
〈東別院の成立〉
 寛保4年(1744)2月4日、幕府は真勝寺を東本願寺に下付、本山使僧 法光寺(ほうこうじ) は6月に四日市入り、 日田代官 岡田庄大夫 に真勝寺(東西30間、南北38間)の請取状を提出。ここに東本願寺四日市別院 実相山真勝寺が成立した。九州御坊と呼ばれ、九州東派の総監となる。
〈西別院の成立〉
 流罪中の教覚寺恵明が死去、敗訴した宗順派はますます悲歎に暮れる有様。これに同情した西本願寺法主法如上人は、恵明等の供養のためにも西本願寺別院を創設したい意志をもらした。伝え聞いた豊前西本願寺法中は、東別院隣接の文治郎所有の畑20歩、竹 薮(やぶ)等を譲り受け、教覚寺 香雲 の入寺している川部 正明寺(しょうみょうじ) を移転、別院昇格運動をすることになり、正明寺四日市引地願を日田代官岡田庄大夫に提出、許可される。これを知った大岡越前守は公儀に立てつく不穏の趣意と取消し、香雲と子の 慈忍 を江戸に召換、香雲は入牢の裁許となるが慈忍が身代り入牢。ところが香雲は宿舎で死去、間もなく慈忍も獄死する。重ね重ねの悲報に宇佐法中は意気喪失、この時決死の覚悟で立ち上がったのは真玉 浄応寺 海印 と長州 妙満寺 の両人。川部正明寺を西本願寺へ献上することを許可するように江戸寺社奉行に直接歎願した。妙満寺も江戸滞在中に客死した。大岡越前守は法儀引き立てのために次々に死んで行く僧達の志に感じ入り、ついに正明寺の西本願寺差上げを許可。延享4年(1747)11月12日、法如上人は九州御坊を創設、西本願寺四日市御兼帯所 護念山正明寺は成立した。西本願寺四日市別院である。
〈お西、お東への改派〉
 ここに別院騒動は表面鎮静化した。当初は「諸方門徒は東西思い思いに宗判」を受け、いちはやく山下の西派門徒13軒は敷田 明徳寺(みょうとくじ) に改修する。しかし動揺大きく、日田代官は寛延2年(1749)在家寄合、旅僧 逗留(とうりゅう)、東西門徒争奪、在家法談、坊主村々 徘徊(はいかい)法談などを次々に厳禁するが、お西からお東へ、お東からお西への転派は門徒のみでなく末寺そのものに及ぶ。
 参考文献 日浦保徳『九州浄土真宗と四日市別院』
[後藤 正二]

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