新田開発 ( しんでんかいはつ)
粒々辛苦の農地造り
農業、とりわけ水田稲作は近世の幕藩制社会を支える生産基盤をなしたものである。領主や農民が一粒の米の増産のためにも力を注いだのは、このためであった。近世は「大開発の時代」とよくいわれるが、それは近世初めに200万町歩であった耕地が、幕末には倍増して400万町歩にもなっていたことからうなづけるが、それは農業生産に向けて力を注いだ人々の努力の結晶である。そのための用水の確保、つまり井路や 溜池(ためいけ)の築造にもみるべきものがある。程度の差はあれ新田の開発には、幕府(代官)、藩、そして農民、町人たちが粒々辛苦してあるいは海岸を干拓し、あるいは延々と用水路を掘削し、あるいは山陰の竹林を切り払って進めたものである。
〈「随分情を入れ、田畑 発(ひら)き申すべく候」〉
佐伯藩 が始まって間もない慶長13年(1608)、藩祖 毛利 高政(たかまさ) は次のように命じている。「村々の近況に田畠を開くに足る場所があれば、そこの竹木はことごとく切払って開墾を進め田畠に変えよ」と。また、「今年の開墾地は来年にかけても少しでも荒れることのないように(引続いて)随分に努力して田畠を開墾せよ」とも。長大な リアス式海岸 の延びる佐伯藩では、とりわけ耕地を手に入れこれを維持することが何よりも急務であったわけだ。このころ、 細川氏 の支配下にあった 由布院 でも、不毛地の再開発である「 永荒開(えいあれびらき)」や新たな「 新地開(しんちびらき)」が農民の不断の努力によって営々と進められているが、こうした事情は大なり小なり諸藩に共通する。
〈用水開発と新田造り〉
府内藩 が早くから新田開発の対象とした地域は、 大分川 の上、中流域(庄内〜挾間町)である。大分川本流が深い谷をつくり河水の揚水が困難なこの地域では天水に頼らざるを得なく、勢い生産規模に限界があった。17世紀の中ごろ、この地域には 長宝水 永宝水 上渕井路 、 初瀬井路 ( 阿南庄新井手 )などが続々と築造され、その用水を受けて新田開発が急速に進んでいった。 中郷(なかごう) 、 奥郷(おくのごう) を合わせておよそ500石を越える新地が開かれていったのである。なかでも初瀬井路の通水によって、新しく 野田村 (大分市)が立村し、また長宝水ができたことにより11町余の「新起田」と新村として 五福村 がつくられた。府内藩では、次いで17世紀末から18世紀前期にかけて、やはり中 奥両郷を中心に用水開発が進められて耕地の拡大が進展するが、同じ大分川に水脈を求めた 熊本藩領 野津原 手永(てなが) などの場合でも、この時期、 大龍井路 の完成により96町歩余、また 鑰小野(かぎおの)井路 では159町余にのぼる新田が開かれており、同様な傾向を確かめることができる。 臼杵藩 の場合、藩初から約半世紀の間に1万1千石余の新田畑がつくられた。このような新田開発の大半は大きな切り添え的な小規模の開発の積み重ねによったものである。
〈海に開けた新田〉
近世後期の新田開発は沿岸の浅海部を堤防によって締め切り、広大な 干拓地 を造成する方式が特徴である。県下においてこの干拓地新田が営まれたのは、 周防灘(すおうなだ)に臨んだ国東郡の西端から中津にかけての海岸部である。とくに国東、宇佐郡域では、 西国筋郡代 ( 日田代官 )の 塩谷(しおのや)大四郎 の尽くすところが大きい。この両郡域には 浜高家(はまたけい) 、 乙女(おとめ) 、 高砂(たかさご) 、 順風 、 郡中 、 沖須村 、 神子山(みこやま) 、 伊和保 (厳保)、 久兵衛 、 北鶴田 、 鹿伏(かぶせ) 、 和田 、 呉崎(くれさき)の各新田がある。これ以外にも、国東郡の 透留(とおる)新田 、下毛郡の 大新田 、 龍王新開 、 中松新開 、 大江新開 、 小松新開 が知られる。これらの新田のうち、他を圧するのは総面積350町歩におよぶ 呉崎新田 である。ちなみに、これに次ぐ伊和保新田は70町歩、そして他の新田にいたっては数町歩から十数町歩にすぎない。塩谷郡代の時期に造成された新田は、多くが文政9年(1826)から翌年にかけてのものである。また、開発担当では村請新田が5(浜高家、乙女、沖須村、神子山、順風)、郡請新田が2(郡中、呉崎)、町人請が1(久兵衛)、農民請5(和田、高砂、伊和保、北鶴田、鹿伏)などであった。
〈県下最大の呉崎新田〉
日田、玖珠、下毛、国東、直入の5郡が引請けとなった呉崎新田は、約1,320貫目の 莫大(ばくだい)な資金が投入された。その出どころは郡で出銀(郡内農民の強制出資)、徳者出銀(有力者の個人的出資)、 助合穀(たすけあいこく) 銀( 日田金(ひたがね) の融資)にあった。このうち、とくに郡出銀はそれでなくても苦しい農民の方に重くくい込むものであった。農民の中には借金までしてこの拠金に応じなければならない者もいたのであり、その返済のために「 十方(とほう)に暮れ」る村も少なくはなかった。もともと困窮農民の救済と「国益」を目的として開発に着手した新田開発が、農民を苦しめる結果を生んでいるのは皮肉である。その一方、久兵衛新田を担当した 広瀬久兵衛 の場合は、公への「御奉行筋」のために利益を度外視してこれに取り組んだという。
[秦 政博]
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