伊藤田古窯跡群 ( いとうだこようあとぐん)

須恵器と須恵瓦

〈瓦はどこで使われたか〉
 伊藤田古窯跡群とは、中津市の東南隅に位置する 野依(のより) 伊藤田地区の丘陵裾に広範囲に展開する 須恵器(すえき) を焼造した窯跡群の総称である。これまでの調査で合計10地点の窯跡群が発見されており、6世紀末から9世紀代におよぶ長期間の須恵器生産が行われたとみられている。確認された窯跡は、野依地区が 大池窯跡 瓦ヶ迫窯跡 踊ヶ迫窯跡 穂谷窯跡 大谷窯跡 夜鳴池窯跡 山田池窯跡 など7地点、伊藤田地区が 草場窯跡 城山窯跡 大谷窯跡 洞ノ上窯跡 など4地点である。特筆すべきことは、野依地区の瓦ヶ迫窯跡および踊ヶ迫窯跡において、須恵器の 甕(かめ)などの成形に用いる同心円のたたきがついた須恵器と同じ焼成の多量の 平瓦(ひらかわら) が出土したことである。瓦とともに「6世紀後半の」「須恵器数点」が発見されているが、この須恵器が本来伴うかどうかは別にして瓦陶兼業の生産体制にあったことは確かである。瓦といえば通常寺院との関連で生産が開始されることが多く、これらの瓦がどのようなところで使われたのか非常に興味のある問題であるが、今のところ周辺の遺跡から出土した例はない。
 須恵器の焼成は、1,000度以上の温度を必要とするので、山腹の傾斜面に築いた 登窯(のぼりがま) によって行う。登窯には完全なくりぬき式のものと、半分だけ地下に埋めて天井部は (すさ)入りの粘土などで構築する半地下式とがある。このため窯本体の構築に適した土質の所が選定されるのはもちろんである。その他にも操業時期に適当な風が吹くこと、焼成前および後の製品の運搬の便がよいこと、もし近くに工房を構える場合はさらに水の便が必要となってくるが、なによりも燃料の確保が重要であった。伊藤田窯跡群の調査された窯で長期にわたる操業が確認されたものはなく、長くてもせいぜい3回程度という。どのような理由があったのであろうか。
 つぎに代表的な窯跡を紹介しよう。
【踊ヶ迫窯跡】
 窯の位置は沼沢や小谷の底部より15m高所に焚口を設け、焚口は東向き、焚口付近に一辺4mほどのくぼみをもつ。焚口から煙出しまでの長さは14.8m、幅は焚口付近で2m、しだいにせばまって煙出し付近では1.3mほどになる。煙出しは丘陵の上縁付近に位置する。床は斜面のままでとくに施設は造らない。この窯から30mほどの距離に須恵器の窯が発見されている。
 焼成した瓦は須恵質 瓦質ともあるが、凹面には模骨痕と布面がのこり凸面は同心円の 敲(たたき)痕のままのものと 撫(なで)消したものとがある。
【城山窯跡a地区2号窯】
 褐色の火山灰層に掘り込んで造った半地下式無階無段登窯で、プランはほぼ完全に発掘された。全長9.81m、最大幅1.3m、中程がふくらんでいわゆるとっくり形となる。焚口は東南東を向き、床面の傾斜角度は17度、床面の状態から最低2回以上の操業が行われた。
 この窯からは須恵器が出土していないので厳密には分からないというほかはないが、焚口の至近距離にある 土壙(どこう) から須恵器の 坏(つき) 高坏(たかつき) 椀(わん) 鉢 甕などが出土している。須恵器の時期は7世紀前半と考えられている。
【瓦ヶ迫窯跡】
 窯跡は、北向き斜面の中腹の標高20〜25mに構築されている。煙出し付近がないがほぼプランの全容は知りうる。半地下式の無階無段登窯である。残存長11.6m、幅はほとんど一定で1.7mである。焼成部下半の床面は基盤の 溶結 凝灰岩(ぎょうかいがん) をそのまま床にしている。燃焼部に最終操業時に廃棄された坏 高坏 甕などの破片が多量に集積していた。操業回数については、2回以上であるが欠損品の量からみて短期間と考えられている。須恵器の時期は6世紀後半〜末とされる。
[真野 和夫]

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