深妙尼 ( しんみょうに)
大友能直の妻
?−1223〜1265−? 豊後 守護 大友能直 の妻。俗名未詳。 風早禅尼(かざはやぜんに)という。生没年月未詳。姓は平氏。父は高山(畠山とも)四郎 重範(しげのり)。大友能直に嫁し、 親秀(ちかひで) 以下9男3女を生む。豊後国 大野荘 地頭職、相模国 大友郷 地頭職を兼ねる。京都大谷に居住、大野荘下村の 泊寺(とまりじ) に生前から墓堂を設けていた(「 志賀文書 」)。
〈多くの子女と 所領(しょりょう)の分譲〉
能直との間に生まれた子は、嫡男親秀 詫磨能秀(たくまよしひで) 帯刀時直(たてわきときなお) 五郎 親直(ちかなお) (早世) 一万田時直(いちまんだときなお) ( 景直(かげなお) とも) 山僧 禅能(ぜんのう) 志賀 能郷(よしさと) 豊前九郎 能基(よしもと) (入道 明真房(みょうしんぼう) ) 又二郎 朝直(ともなお) の9子と女子3人。貞応2年(1223)11月2日、能直は死の直前、養父 中原 親能(ちかよし) よりの相伝所領として、豊後国大野荘地頭職と相模国大友郷地頭郷司職を妻深妙に譲与した。数子の母堂たるの上、年来の夫婦であったからとある。同月27日能直は京都で死去(『 吾妻鏡(あずまかがみ) 』)。俗に彼が建久7年(1196)ないし同4年に 鎮西(ちんぜい)奉行 豊前 豊後 守護職 として入国し、大野荘藤北(大野町)に居住し、ここで卒去したとの説があるが(『 大友家文書録 』)、彼の入国も裏付けがなく、京都で卒去とあるので、俗説は信じ難い。深妙は上記所領を17年間 知行(ちぎょう)の後、大友郷は嫡子親秀に、大野荘を7人の子女に分譲した。能直の遺言では、大野荘の村々は又二郎朝直に「むねとゆつるへし」とあったが、朝直が早世したので、兄の志賀能郷に譲るべきところ、病弱であるから皆に分割したとある。大野荘は 志賀村 上村 中村 下村 の4村に分れているが、その配分関係は次の通り。詫磨能秀=志賀村半分地頭職、一万田景直=上村半分地頭職、志賀能郷=志賀村半分地頭職、九郎入道明真=下村地頭職(大友能直墓堂 院主(いんず)職を寄付)、娘犬御前=中村地頭職、娘美濃局=上村半分地頭職、帯刀時直後=中村 保多田名(ほただみょう) 。帯刀時直はすでに死去しており、数人の子供と未亡人が残されていた。
〈下村の能直墓堂と風早墓堂(泊寺)〉
深妙の譲状のうち九郎入道明真(豊前能基)分は、下村全体で、他の3村が大体半分あてとなっているのと異なっている。それは同村には能直の墓堂があり、その院主職も明真房に寄付するとある点からわかる通り、彼は出家してその墓守りの役目があった。なお下村の泊寺という寺には、深妙の逆修墓(風早の墓堂)が設けられており、彼はその院主であった。泊寺は今日の「とまりごう」付近と考えられ、それに接続した所にある 勝光寺(しょうこうじ) に能直墓堂があったらしい。何となれば、夫婦の墓堂が 比翼塚(ひよくづか)として接近するのが通例であり、しかも、大友氏歴代は自己の創めた寺ないし最も関係深い寺名を取って 謚号(しごう)とする慣例で、能直謚号を「勝光寺殿豊州能蓮大禅定門」と称することがこれを裏付ける。おそらく京都の墓所からの分骨であろう。明真房は両親の現世安穏 後生善所の孝養のため出家させられたもので、彼は泊寺院主職を弘長2年(1262)甥に当る志賀能郷の次子 禅季(ぜんき) に譲っている。これも深妙の計らいであることは、「禅季をば、尼並びに故殿(能直)が孝養報恩をもせさせんがために、とりわき法師に成して、風早の墓堂に置」いたとあることでわかる。深妙が禅季に対して志賀村南方の 近地名(ちかちみょう) と 筑紫尾寺(ちくしおじ) (今の朝地町 普光寺(ふこうじ) )を譲与したのも、おそらく因果を含めて僧籍に入れた禅季に対する報いであったらしい。
〈能直死後40数年間の後家生活〉
深妙は能直の貞応2年の死後以後、40数年間、京都大谷で後家生活を続け、諸子の生活を見守っている。とくに志賀能郷は生まれつき病身で、母だけを頼りにしていたとあり、格別心にかけ、孫 泰朝(やすとも) 禅季等に対しても、能郷に代わって親権を行使している。禅季の出家や彼に対する所領分譲の処置等、すべて嫡子泰朝と相談して行っている。僧籍の禅季の跡職(死後の所領)についても、実子のない時には、惣領泰朝の子を弟子にもし、養子にもして譲れ、他人に譲ってはならぬ、関東 御公事(おんくうじ)(幕府への勤め)は惣領泰朝に従って勤めよ、等細細と指示している。志賀村北方の詫磨能秀と志賀能郷の境争いにも、懇懇と兄弟仲よくせねばならないことを、京都大谷から書状で両者をたしなめている。惣領親秀に譲った相模国大友郷内の屋敷を、志賀泰朝らに鎌倉出向の宿のため与えたのも、親の細かな心遣いであった。
〈深妙卒去〉
深妙書状は文永2年(1265)2月13日付けが最後。大野荘譲与についての能直の遺言を述べ、結局は諸子に分譲したが、志賀能郷の嫡男泰朝は自分が最も 不便(ふびん)に思う孫だから(能郷病弱のため深妙が泰朝を育てたか)、諸子中跡つぎが無く、また不忠者の出た時は泰朝が知行し、我ら2人を供養せよ、とある。文面から見て遺言らしい。文永8年の禅季契約状には「祖母遺言」とあり、文永2年後間もなく卒したものか。90歳以上の長寿であろう。
参考文献 渡辺澄夫『豊後国大野荘史料』
[渡辺 澄夫]
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