神領興行 ( しんりょうこうぎょう)
敵国降伏祈願のお礼
〈神仏への感謝〉
朝廷と幕府は、 蒙古(もうこ)襲来 合戦の勝利は御家人の奮戦以上に神威の発現による、いわば神風の助けを借りた結果であると考えていた。その神仏のご加護に報いるため、戦後も 祈祷(きとう)を行い社殿や社領の復興に努める必要があった。弘安7年(1284)5月20日の「新御式目」で、寺社領はもとのように 沙汰(さた)しつけ、神事を 専(もっぱ)らにし、寺社の新造を止め、諸国 国分寺 一の宮 の興行を命じた。特に、九国(九州)社領については、甲乙人(平民)の買得を禁じ、元のごとく沙汰せよと命じた。同6月25日「新篇追加」の条々で、 鎮西(ちんぜい)(九州)の主要神領を甲乙人等が 沽却(こきゃく)質券の地と称し、みだりに管領しているという噂があり、康元(1256)前後の下知を帯し、知行の年序を経ていても、沽却質券の地であれば、もとのように返付するよう命じた。この神領への年紀法不適用の規定は、既に嘉禎元年(1235) 宇佐宮領 に関して発せられていたのである。
〈神領興行法〉
永仁6年(1298)6月13日、朝廷( 伏見(ふしみ)天皇)は神領興行の 綸旨(りんじ)(蔵人が天皇の意を受けて出す奉書形式の文書)を下し、幕府もこれに対応して10月27日に神領興行沙汰についての 御教書(みぎょうしょ)を発した。また、12月1日に九州の大社以下の修造 遅怠(ちたい)、恒例仏神事の衰退をとがめる御教書と 事書(ことがき)を発して神領の興行を命じ、もし興行を妨害する者があれば、その名前を注進するよう指示している。神領興行綸旨発布後、宇佐宮では「社家一同法」あるいは「一社制法」により、本所ならびに社家下知状で裁許されている。次いで、正和元年(1312)末に神領興行法が出され、これは宇佐宮( 弥勒寺 ) 香椎(かしい)宮 箱崎宮 高良(こうら)宮 大宰府 (天満宮 安楽寺 )の鎮西五社を対象とした 徳政令 であった。この法の骨子は、神官でないもの(=非器の 輩(やから))が社家から相伝買得、押領した土地を、非御家人 御家人 凡下(ぼんげ)(平民)知行分からは無条件に社家に返付させることであった。ただし、御家人知行分については、代々没収地 罪科人跡や天福 寛元以前より御家人役を勤めてきた土地は対象とならなかった。この段階で、初めて御家人も非器の仁として認識されたのである。判決は神官であることの確認と、論人(被告)側が非器の輩であるかどうかが、最大の判定基準となった。幕府は裁許の権限を 鎮西 探題(たんだい) に委任したが、「関東の沙汰」「武家下知」「武家興行下知」として、直接「関東奉行人」の安富長嗣 斎藤重行 明石盛行を派遣して執行に当たらせている。ところで、正和の神領興行法の存在を疑問視する見方もある。つまり、北条 貞時(さだとき)は永仁6年に発せられた綸旨に対応し、同12月の「興行御沙汰」(関東御教書と事書)によって決められた事柄を、法という表現で置き換えたもので、正和に発したものではないとする。
〈宇佐宮寺領の返還訴訟〉
宇佐宮領に対する地頭の非法は、文永 弘安前後からみられる。正和元年ころから豊前国 下毛(しもつみけ)荘 や豊後国 来縄(くなわ)郷 内小野名 田染(たしぶ)荘 田原 別符(べっぷ) 石垣荘 などで、地頭と神官との争いが急激に増加した。現在残っている史料では、宇佐宮関係のものが圧倒的に多い。元来、鎮西探題は神領興行法実施関係の論争に対し、裁決以前の証拠固めの段階で、 宇佐 大宮司(だいぐうじ) 宇佐前対馬守公世 宿禰(すくね) の挙状(推薦状)があれば、争論地の神領たる事、論人の非器たる事は明白となり、「不能不審(ふしんあたわず)」として社家側に有利に裁断された。一方、宇佐弥勒寺領の場合は、留守 山下禅達 の挙状を帯して上訴すれば、神領と同様の審理過程を経て、寺家側に返付されたのである。御家人 非御家人 凡下の輩の買得 展転 知行(ちぎょう) 押領(おうりょう)という現実面だけが神領興行の事書に照合され、形式的に裁断されたのである。しかし、論人は審理に応じず、判決に従おうともせず、武力を以て抵抗した。鎮西探題は現地調査や論地の引き渡しのため、現地に近い所を本拠地とする御家人を、「御使」として強制執行を命じた。
〈興行法の影響〉
御家人と神官との訴訟において、御家人が勝訴した例がある。豊前国黒水 吉武両名について、豊前国御家人 久保 種栄(たねひで) は明海房海意女子大神氏経方及び宇佐宮神官らと争い、鎮西探題は11か条の理由を列挙して、久保種栄の勝訴を決定した。宇佐宮における神官御家人の場合、身分的には宇佐宮 幕府の両方に帰属していた。 屋形氏 は関東 下文(くだしぶみ)を帯し、元徳3年(1331)に御家人を称しており、れつきとした御家人であったが、神領興行に際しては宇佐宮神官として相伝の地の返還を求めている。神官御家人は、御家人たる側面よりも神官としての祠祭者的側面を強調して、その利益を享受しようとしていたことが判明する。幕府は神領興行法を断行したが、徳政令と同様に経済界を混乱させただけで、やがて御家人の支持基盤を喪失し、幕府滅亡の遠因となったのである。
参考文献 「鎮西探題と神領興行法」(『社会経済史学』28巻3号)
[乙・ 政已]
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