縄文住居跡 ( じょうもんじゅうきょあと)

発見相つぐ縄文時代竪穴住居跡

 大分県ではつい10数年程前まで縄文時代の 住居跡 は皆無に等しかった。これは九州全般についても云えることであったが、近年の発掘調査の増加により、急速にその例が増加している。
 縄文時代がいかに 狩猟 主体の生活と云われても、そこには定着した 集落 があり、それは立派な 竪穴(たてあな)住居跡 によって構成されていたことは、各地の調査結果によって明らかにされている。東日本地方では、大分県でも一般にみられるような弥生時代集落と同様の規模の縄文集落が数多く調査されている。
〈九州地方の縄文住居跡〉
 縄文早期の例としては、鹿児島県加栗山遺跡の17基の竪穴住居跡が代表的なものである。ここでは平面形が方形ないし長方形のものが多く、いずれも床面の壁際に多数の小型柱穴が並んでいるもので、屋内炉はない。このほか、早期の鹿児島県石峰遺跡、前期の佐賀県千束遺跡では円形の竪穴住居跡となっている。
 中期では発見例がないが、後期中葉の時代から全九州的に竪穴住居跡の発見例が増加してくる。さらに平面形も円形が主体となり、方形のものは少なくなってくる。後期中葉の時期は、いわゆる 鐘ヶ崎式土器 や 北久根山式土器 といわれるものを 標式土器 とするものである。この時期では、確実に屋内に石囲炉をもつものが、出現してくる。後期後葉では、 三万田 御領 系の土器が指標となり、この時期には再び、長方形の竪穴住居跡が増加する傾向にある。晩期でも方形もしくは、隅丸方形が主体を占めている。
〈大分県の縄文住居跡〉
 大分県で確実な縄文住居跡は、後期中葉の鐘ヶ崎期に伴うものである。この時期には、中津市 棒垣遺跡 と別府市 羽室(はむろ)遺跡 がある。とくに本県で初見となった棒垣遺跡は、 犬丸川 北岸の低台地上にあって、小さい 貝塚 を伴う。ここでは、2基の竪穴住居跡(不整円形 方形)があり、 方形住居跡 では 石組炉 が検出されている。不整円形のものは、長辺4.4m 短辺3.4mと 楕円(だえん)形に近く、方形のものは1辺6.9mの規模である。この方形住居跡内からは、鐘ヶ崎式土器のほか、 扁平打製 石斧(せきふ) 、 磨石 敲(たたき)石 等の道具類が出土している。
 羽室遺跡は、別府羽室台高校の新設工事に伴って調査されたもので、径4m弱の円形竪穴住居跡が1基のみ発見された。床面は二段のベット状になっており、中心部に柱穴とみられる掘り込みがある。石組炉はみられず、遺物も少ないが、確実に鐘ヶ崎式土器を伴うものである。
 大野郡三重町 惣田遺跡 の円形と楕円形の住居跡は、後期中葉末の時期のものである。古い形式の三万田式土器を伴うもので、円形住居跡の床面中央には地床炉があり、さらに床面の一端に出入口施設とみられる一段高い部分がある。後期後葉の三万田期になると、野津町 内河野遺跡 、同 生野遺跡 、大野町 松木遺跡 で長方形の住居跡が見つかっている。生野遺跡の住居跡は、床面に柱穴と 地床炉 をもっているが、内河野遺跡と松木遺跡のそれは柱穴も地床炉も見られない。なお、内河野遺跡では円形住居跡1基があり、ここでは地床炉らしきものがある。あるいは長方形と円形の竪穴住居跡の機能の違いがあるのかもしれない。
 晩期における住居跡は、竹田市 石井入口遺跡 と同 小高野遺跡 の方形住居跡が知られているにすぎない。石井入口遺跡のものは、床面に数か所の焼土がみられるが、壁面は低く、検出するが困難なほどである。晩期の住居跡が見つけにくいのは、こうしたことに原因があるのかもしれない。
〈縄文住居跡はなぜ少ないのか〉
 大分県では、集落を構成するほどの住居跡群の調査例はない。一遺跡せいぜい2 3基の竪穴住居跡が見つかっているにすぎない。では、大分県では、縄文時代の集落が形成されなかったかというとそうではない。大分県では、その大半が後の弥生時代集落と重複することによって、竪穴の浅い縄文住居跡が破壊されていることに大きな原因があるのかもしれない。竹田市石井入口遺跡や大野町 二本木遺跡 のように、弥生時代の安定した集落の場合、空白地を見つけるのが困難なほど密集して建て替えられいる。こうした場合、仮にその前段階に縄文時代集落が形成されていたとしても、遺構が残される確率は非常に小さいものと思われる。
 しかし、緒方町 大石遺跡 のように、後の時代の 撹乱(かくらん)がほとんどなく、縄文時代のある時期の単純な遺跡の場合は、慎重な調査によっては、住居跡群すなわち集落というものが明らかになってくるかもしれない。その時はじめて、大分県においても縄文時代の村落景観の全容というものが把えられるものと思われる。
[清水 宗昭]

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