儒学 ( じゅがく)
並び立つ学派
二豊諸藩では、江戸幕府が文治政治の基本として定めた 朱子学 を規範としながら封建教学を確立する。のち、 陽明学 古学 (古義学 古文辞学) 折衷学 などを考究する学者も並び立ち、藩学に大きな影響を与えた。
〈諸藩の教学〉
中津藩 では、 進脩(しんしゅう)館 の学則に、経義朱註を主とし、併せて古註を用いることを定め、異説を唱えることを禁じた。同藩において古義学が 勃興(ぼっこう)したのは、 伊藤 東涯(とうがい) 土井震発 に学んだ 藤田 敬所(けいしょ) によるところが大きい。宝暦2年(1752)、敬所は藩文学となり、古義学批判を排除して藩士の薫陶に努めた。門人に 三浦 梅園(ばいえん) 倉成 龍渚(りゅうしょ) らがある。その学統は 山川 東林(とうりん) 野本 雪巌(せつがん) らに継承された。岡藩では、3代 中川 久清(ひさきよ) が好学で知られ、陽明学を信奉していた。万治3年(1660)、陽明学者 熊沢 蕃山(ばんざん) を招へいして学問奨励を図るなど、藩政初期には知行合一を理念とする陽明学を藩学の基礎とした。中期、 久貞(ひささだ) が藩主となると、 柴山 鳳来(ほうらい) 加治鳳山(かじほうざん) が来岡、 姥柳有萃(うばやなぎゆうすい) ら家中子弟の教育に当たり、古文辞学が盛んとなった。この学統は 伊藤 鏡河(きょうか) らに継承された。後期、11代 久教(ひさのり) は 角田九華(つのだきゅうか) を由学館教授に任じた。九華は 徂徠(そらい)の学説を否定し、朱子学を基本として諸説を折衷する中井 竹山(ちくざん)の門に学んだ。
府内藩 では、江戸時代後期、 竹内 東門(とうもん) が儒学を講じた。天保11年(1840)、その子 安真(あんしん)は 采芹(さいきん)堂 の教授となり、のち、淡窓門の 阿部 淡斎(たんさい) 島 維精(いせい) 広瀬 青邨(せいとん) らが学職に任じられている。竹内門流は安真の子 淡軒(たんけん)が継いだ。淡軒は 帆足 万里(ばんり) 、 広瀬 淡窓(たんそう) に学んでいる。阿部淡斎も淡軒とともに淡窓門に入門、上府の際、佐藤 一斎(いっさい)について経義を聴講した。島維精も淡窓門に入り、 昌平黌(しょうへいこう)に入った。帰藩後は青邨とともに藩士子弟の教育に携わり、藩学の興隆に努めた。同藩の学風は折衷学派に属したといえる。
佐伯藩 では、8代 毛利 高標(たかすえ) が 藩校 四教(しこう)堂 を設置して、一時、広瀬淡窓を教えた 松下 筑陰(ちくいん) を招へいして儒官としたため、折衷学風が振興した。その後、 三浦 黄鶴(こうかく) 広瀬淡窓に学んだ 明石秋室(あかししゅうしつ) は折衷学を継承、ついで、淡窓 亀井 昭陽(しょうよう) に学び、昌平黌に入学した 中島 米華(べいか)( 子玉(しぎょく)) らが儒官となると、朱子学 古文辞学が講釈された。11代 高泰(たかやす) が、天保14年(1843)、 秋月橘門(あきづききつもん) を藩校教授に招へいしたため、折衷学 古文辞学が継承される。同藩で朱子学 古文辞学 折衷学が並行して教授されたのは松下竹陰以来の学風によると考えられている。 森藩 では、8代 久留島 通嘉(みちひろ) によって 修身(しゅうしん)舎 が設置されて朱子学が講じられたが、弘化のころ、陽明心学に類似した心学が盛んとなり朱子学が衰退した。嘉永末年から藩主が再び朱子学を奉じ、 園田 朝弼(ちょうひつ) に学規を整備させるに及んで、ようやく、藩学の基礎が確立された。朝弼は淡窓門、のち、昌平黌に学び、11代 通胤(みちたね) によって藩校教授に任じられた。同藩では朱子学を主としながら、陽明学をあわせ、折衷学をも重んじている。 杵築藩 では、藩学の初期、 綾部道弘(あやべどうこう) 斎(けいさい)を侍読として学政に意を用いた。 綾部 斎 は伊藤東涯 北村 篤所(とくしょ) ら古義学者、朱子学者 室鳩巣(むろきゅうそう) 、古文辞学者 服部 南郭(なんかく) などと 研鑚(けんさん)、交流し、その学識は藩学に大きな影響を与えた。天明初年、7代 親賢(ちかかた) が三浦梅園を招いて学事を諮問、天明末年には、梅園の子三浦黄鶴が 学習館 教授となり、梅園の学風を伝えた。黄鶴の死後、学問が振るわなかったが、9代 親良(ちかよし) が 元田竹渓(もとだちくけい) を教授として学問の振興を図った。竹渓は、一時、佐藤一斎の門に入ったが、再び、帆足万里に学び、帆門10哲の1に挙げられた俊才であった。同藩では、梅園 万里のもつ実学主義を基本とする折衷学が用いられている。 日出(ひじ)藩 では、藩初に 人見竹洞(ひとみちくどう) 小野 鶴山(かくざん) を招いて朱子学を講じさせた。
後期、9代 木下 俊泰(としやす) は原田東岳に命じて、伊藤東涯に古義学、服部南郭に古文辞学を学ばせた。10代 俊胤(としたね) は東岳を儒官に挙げ、古文辞学者 伊東 藍田(らんでん) を招へいして藩主の師とした。寛政年中、12代 俊良(としあき) は梅園門の 井上懿徳 を儒官とし、また、昌平黌に学んだ 秋山 玉山(ぎょくざん) や三浦梅園らを招いて学事の振興を図った。13代 俊敦(としあつ) のとき、帆足万里を儒官として家中子弟教育を司らせた。その学派は朱子学を主とし、のち、古学、さらに諸家の学説を折衷して、活用 経済を旨とした。万里ののち、 米良東 (めらとうきょう) が継承する。東 は帆足万里の門に学び、帆門四天王として傑出した。臼杵藩では、伊藤 仁斎(じんさい)に学んだ 吉田 臥龍(がりゅう) が藩士に儒学を講じた。臥龍につづいて 荘田子謙(しょうだしけん) が儒官となる。
子謙は伊藤東涯について朱子学を学んだが、のち、服部南郭の門で古文辞学を修した。文化元年(1804)ころ、 武藤 東里(とうり) ら古学派儒官が藩学で講釈している。天保初年、13代 幾通(ちかみち) は 武藤 虎峰(こほう) らを江戸に遊学させ、帰藩後、教授に任じた。虎峰は古註学者東条一堂に学び、学古館で折衷学を講じた。藩の文運はこのとき定まったという。 立石領 では、天保8年、 毛利 空桑(くうそう) 帆足万里に学んだ 後藤 八衛(はちえ) が 無逸(むいつ)館 教授となり、古文辞学 折衷学風となった。
参考文献 笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究』
[芦刈 政治]
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